バイブルバイブレーション

聖書の言葉で震えるような体験をあなたへ

聖書の名言 「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」(創世記1章2節)

こんにちは、来栖川クリスです。

 

今回は聖書の名言である「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」の内容を、キリスト教伝道者が分かりやすく解説していきます。


本記事は、聖書のことばにすこしだけ触れてみたいと思っておられる方にオススメです。

 

聖書を読むうえでの大前提となる世界観とは、一体何なのかを簡単に知ることができる内容となっておりますので、是非ご利用ください。

 

「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」

 

この言葉には、派手さが無く、一見すると寂し気であり、漠然としていて、私たちに何の関係もない言葉に見えますが、多くの教訓があり、多く祝福が込められています。

 

ざっとこの文章の聖書における位置づけと、理解する上での注意点を確認した後、文章「地は茫漠として何もなく」、「闇が大水の上にあり」、「神の霊がその大水の面を動いていた」といった具合に3分割してなるべくわかりやすく解説していきたいと思います。     
   

「目次」

  1. 「地は茫漠として何もなく」
  2. 「闇が大水の面の上にあり」
  3. 「神の霊がその水の面を動いていた」
  4. まとめ

「ご紹介」

  1.  サムネイルの絵
  2.  聖書をお求めの方へ

 

先ずこの文章の聖書における位置づけを、少しだけ確認いたします。

 

今から説明することは、このことばを理解するのに非常に大事なことなので頭の片隅に置いておいていただきたいと願います。

 

「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」

 

これは、神がこの世界を理想的に創造される前の、地上の状況を説明している言葉であり、聖書の神の天地創造物語の内の一文です。

 

この文章のすぐ後に、神が人間の為に、天地の創造に取り掛かる場面が描かれます。

 

神がこの地を形作る前の、荒涼とした大地の状況と、そこに今まさに介入しようとされている神自身の様子を、我々人類に伝えているのです。

 

「神がこの世界を理想的に創造される前の、地上の状況を説明している言葉」という文脈が、この文章を理解するうえで非常に大切なことです。

 

男子は、女子が台所に入り、エプロンを締める姿を見ると、グッとくるものがあると思いますが、この箇所は、神が世界を作るためにエプロンを締めている姿を描いています。

 

要は、そのような神の姿に筆者の強調したいところがあると言いたいわけです。

 

聖書はもともと古代中近東の言語、ヘブライ語で書かれている書物でありますけれども、日本語でこの箇所を読むと、無機質に状況のみを説明しているように見えます。


しかし、ここで述べられていることは、ただ単に神が創造に取り掛かる前の原初の世界がどうであったかという状況説明だけではありません。

 

読み手にとって必要な、精神的な意味や、宗教的要素が含まれています。

 

聖書の言葉はすべて、人に対して語られているものであり、あくまでも人に必要なテーマへと向かいますが、この箇所も同様です。

 

原文のヘブライ語で見てみると、詩的表現が施されて、非常にエモーショナルな一文であることが分かります。

 

聖書の言葉は、紙も、印刷技術もない古代に叫ばれた言葉でありますので、その教えを記憶し、共有する方法として、詩として、口伝で共有する方法しかありませんでした。


詩とすることによって、聖書の教えは代々教えられ、記憶され、守られてきたのです。

 

また、詩的表現が用いられている最大の理由は、読み手の感情に訴えかける為でした。

 

歌手が自分のメッセージを伝える為に、歌詞を創意工夫するのと同じように、聖書の言葉は人の心に突き刺さるように工夫されています。

 

だからこそ人の必要を満たすことができる言葉として、3000年以上昔から今まで、すべての時代の人々に用いられてきたのです。

 

今回紹介することばにも詩的表現が用いられ、人々に何かを訴えかけています。

 

ではこの一文は、どの様なことを我々に伝えているのでしょうか。

 

一つ一つのことばを取り上げ、共に見ていきましょう。

 

1.「地は茫漠として何もなく」

この言葉はこの世界が理想的に形成される前の地上の様子を表現しています。

 

日本語訳では「地は茫漠として何もなく」という直訳調になっており、単調になっていて、更に「茫漠」という誰も一度も使ったことのないであろう日本語が当てられ、小難しくなっています。

 

そして、原文では詩的表現が施されていて、とにかく「何もなかった」ことが強調されています。

 

詩的表現を生かして、簡単に訳し直すならば、「見えるものでも、形あるものでもなく」と訳すことが可能です。

 

原語では、見えるもの‘‘でも‘‘形あるもの‘‘でも‘‘といった具合に、否定のニュアンスがある接頭語が2度繰り返されていて、「無」が表現されています。

 

しばしば「無から有の創造は可能なのか」というテーマが話題になることがありますね。

 

自然科学において、或いは、物理学においては、ビックバン理論という考え方をもとにこのテーマが、今も尚研究されています。

 

論理学においては、無と有の関係性について、無とは有という概念に相対的に存在する概念であって、本質を同じくするので、実存的にそれらを語ることは無意味であると説明していたりもします。

 

しかし、人がどんなに知識を振り絞ろうとも、未だ的を得た回答は導き出せていません。

 

皆様はどう考えますか、私は、これから先もその回答を導き出すことは不可能であると思います。

 

そもそも「無」というものを何を契機に証明することが出来ましょうか。

 

このテーマは明らかに人間の理知的範囲をはるかに超えたものでありましょう。

 

しかし聖書は「地は茫漠として何もなく」というこの言葉をもって、大胆にも「無」という概念を主張して、更に神が「無から有を創造した」と宣言しているのです。

 


ただし、聖書の関心は、科学的に「無から有の創造は可能なのか」という人間の理知的範囲を超えたところにはありません。

 

あくまでも人間に必要なテーマへと向かいます。

 

ここでの聖書の関心は、人間が存在するのに必要なものが一切ない状態に、神が介入しようとしていたという点にあります。

 

神の愛の対象である人類の為に、今まさに「無」に介入しようとされていた。

 

科学的な証明をすることによってではなく、「愛」という精神的概念を通して、「無」という概念に束縛されない絶対的存在が「無から有を創造した」と宣言しているのです。

 

聖書は、無に神が介入したことを通して、神の、人に対する愛を表わしています。

 

ここで考えていただきたいのは、何故、何にも依存しないような絶対的な存在が、不完全な存在である人間の為に、この世界を造る必要があったのだろうかということです。

 

もしも、そのような絶対的な存在、即ち「神」と言われるような存在があるのなら、何も必要とはしないでしょう。

 

ましてや、人という不完全な存在の力など無用なはずです。

 

しかし聖書は、この絶対者である神が、天と地すべてを人の為に、人に相応しく創造したとしています。

 

それは親が、子供の為にあらゆるものを備えるかの如く行われました。

 

神の創造はすべて人の為に行われているものなのです。

 

愛は何かに向けられなければ、それだけでは存在しないものです。

 

神はその愛の為に、愛の対象を求めておられました。

 

故に「無」という境界を貫いて、人の為に神がすべてを創造したということが、この言葉に目を留め、次章以降に展開されていく天地創造の記事を読めばわかります。

 

この様に聖書の筆者は、「無」という概念を「有」なる存在である人間の前に置くことによって、人は神に創造され、神の寵愛を受ける為に存在していることを説明しているのです。

 

その上で、人類は有限なる存在であるということを読者に、先ず認識させようとしています。

 

神は利己的な思いからではなく、人の為に「何もないところから」人に相応しく天地を創造しました。

 

2.「闇が大水の面の上にあり」

この言葉も先程のことばと同様に、この世界が理想的に形成される前の地上の様子を表現しています。

 

先ず、「闇」という言葉が出てきますが、これは単に「暗闇」という意味を超えて、人の立場から、神の介入される前の世界を観察して、人類にはどうしようもない「混沌」であったりとか「絶望」を表現しています。

 

また「大水」という誰も聞いたことの無い言葉が当てられていますが、この言葉を日本語で訳すのは至難です。


ニュアンスで捉えていただくしかないでしょう。

 

この「大水」という言葉の持っている他のニュアンスは「塩水」です。

 

これは、おそらく古代人の大敵であった「塩害」をイメージしているものと思われます。

 

塩害とは、田畑に塩水が侵入して作物などがすべてダメになる事を言いますが、ここでは、人に必要不可欠な作物も何も決して育つことのない「絶望」が表現されています。

 

ですから、「闇が大水の面の上にあり」と、先程の「地は茫漠として何もなく」という言葉も併せて、聖書の説明している神の介入する前の、原初の世界をイメージするならば、「荒涼とした虚無というにふさわしい大地を、絶望というにふさわしい塩水が覆い、更にその上を混沌が覆っていた。」といった具合でしょうか。

 

「虚無」の上に「絶望」、更にその上に「混沌」といった概念の三層構造で、とにかく原初の世界は、人類にとって、この上なく希望の無い世界そのものであったということが強調されているということです。


 
神が手を付ける前の世界は、人類にとっては決して手に負えるものではなく、絶望以外のなにものでもありませんでした。

 

聖書は、神の天地創造という希望を前に、先ず闇という名の絶望を示しています。

 

絶望を絶望として認識することをしなければ、希望を希望とすることは不可能です。

 

「絶望は絶望であると認識する」そのような書き手の意図を、このことばから見ることができます。                  


では、今を生きる我々にとっての絶望となんでしょうか。

 

次のことばの解説に移る前に、今を生きる我々にとっての闇について共に考えてみましょう。

 

我々にとって最大の闇とは何でしょうか。

 

原初の世界がそうであったように、人類にとって決して手に負えないものとは何でしょうか。

 

それは「死」であります。

 

これは誰も否定しないでしょう。

 

そのような圧倒的な闇に対して現代人はどのような態度を取っているでしょうか。

 

現代の闇への対し方は、闇を闇として認めない、或いは、闇を見て見ぬふりをすると言ったところでしょうか。

 

間違いなくそのような傾向はあると言えましょう。

 

しばしば、闇を光としてとらえる傾向すら見受けられます。

 

現代人の「死」という闇のテーマについて対峙する姿は、混乱以外の何物でもありません。

 

結局人類は、死という圧倒的な現実を前に心を騒がせ、目をそらすしか術を持たないのです。

 

「死」というのは、誰も逃れることのできない現実でありますが、現代人は必ずしも、そこに目を向けようとはしません。

 

考えても解らないものと割り切っているからのか、或いは、目の前の問題でいっぱいいっぱいだからなのか、いろいろな要因があると思います。

 

しかし、大きな要因として言えるのは、死に対して楽観的になっていることが主な要因なのではないかと思います。

 

現代人は、実は「死」を恐れていないのです。

 

死というテーマから目をそらし続けた結果、絶望をを絶望としてとらえることが出来なくなってしまっているからです。

 

何故、自分は死んでも大丈夫だろうと、ぼんやりと思い込んでいるのでしょうか。

 

何故、誰も死について大して関心を払わない状況を、自然と真っ当であると思っているのでしょうか。

 

この現代的な精神状態は、人類歴史から見たら極めて異常であると言えましょう。

 

現代人たちが常識と考えていることの背景には、「死は肉体が消滅すること」という、実は極めて思弁的で、空想的な考え方があります。

 

大多数がそう認めているからと言って、極めて真実に近いものの様に思い込んで、生物学的な死ということのみに限定して、死を楽観視する。

 

また、しばしば楽観を通り越して、天国的な世界を想像して家族と一緒に過ごせるのかなとか、或いは、地獄的な世界を想像して、この世で悪いことをした分、なんとなく懲らしめられるのかなだとか。

 

だけど、それでも地元の悪友なんかと、なんとなく地獄で笑い合えたらいいやとか、非論理的な謎の想像をしたりもします。

 

その様にして、我々は絶望を絶望として認識しておらず、闇を見て見ぬふりをして、目をそらし続け、死を絶望として直視せずに、死を実質無きものとみなしています。


だからこそ、現代人が死というものを真剣に考えるときのほとんどが、年を取った時や、病気になった時などの死期が具体的に近づいていると認識できるときなのでしょう。

 

その様に死が具体的に目の前に迫ってきたとき、はじめて絶望します。

 

いくら巧みな論法で凌ぎ、覆い隠し続けても、死という絶望は誰しもがいつか直面するものです。

 

年若いからと言って、或いは健康だからと言って考える必要はない、本当にそうでしょうか。

 

しかしながら、例え今、死を絶望と恐れて真剣に向き合おうとして、死に関心を払っているような世界観に足を突っ込もうとしても、結局は胡散臭いと思ってしまう人が多いようです。     

 

およそこの世の宗教、哲学等の思想的な営みは、死という闇を解決する為に生まれたものと言っても過言ではないと思います。

 

すべての思想の関心が、死からの「救い」に向けられているからです。

 

人類が編み出した思想は、如何にして死を克服できるか、いかにして死に付随する思い煩いを減らすことができるかに関心を置いています。

 

如何に着飾り、死から遠いテーマを語っているように見えても、結局は、死という恐れを如何に軽減して生きていけるかという人間的なテーマに収斂していくのです。

 

例えば、仏教では死から救われる為に死を再定義して、生命の循環の一部と教えています。

 

死というものを絶望とは見ずに、死というのは生命の大きな流れのプロセスに過ぎないとしていると言えるでしょう。

 

「輪廻転生」という教えは、正しくそのような発想から生まれた思想です。

 

この様な思想から生き方を模索すれば、次に生まれ変わる時に良い思いが出来るように、良い生き方をしようということになります。

 

日本人はこの思想に大きく影響されていますよね。

 

しかしほとんどの人は、死という現実を無視するような、非現実的な飛躍した思想には拒絶反応を示します。

 

その考え方を裏付ける実証が一切ともなわないからです。

 

結局のところ妄想に過ぎないと、ほとんどの人は判断します。

 

何故なら、いくら理屈をこねようとも、実際のところは死後どうなるかは分からないし、いかに立派に生きていようと、いつか絶望は無情にもやってくると、実証によってわかっているからです。

 

正しく聖書の説明する原初の世界がそうであったように、我々の心も死という絶望を前に、心を闇の様に暗くして、塩水の様な涙を流し、心を空しくしています。

 

そうするほか術がないのです。

 

聖書はここで、絶望を絶望として直視するべきだと警告しています。

 

その上で、この後に示す希望を受け取ってほしいと言っているわけです。

 

この後の神の天地創造の記述を理解するためには先ず、原初の世界という絶望を直視しなければならないと、筆者はここで強調しています。

 

3.「神の霊がその水の面を動いていた」

最後にこの言葉に注目します。

 

この言葉も非常に抽象的な表現が用いられていますので、ニュアンスで捉えていただくのが良いと思います。

 

先ず「神の霊」とありますが、「神の息」「神の風」とも訳すことができます。

 

とにかく神の「霊」という、目に見えない力を表わす言葉が、ここでは用いられ、絶望の世界への神の介入の予感を描いています。

 

そしてそのような目に見えない存在が、「その水の面を動いていた」とあります。

 

「その水」というのは先程説明した「大水」、即ち絶望を表現している「塩水」の事です。

 

「動いていた」とありますが、この言葉も日本語で見ると少し単調に見えますが、原語で見ると様々なニュアンスを含んでいます。

 

例えば「漂う」「宙に舞う」「羽ばたく」「揺れる」「震える」「覆う」等です。

 

何れもどこか優しく柔らかいイメージのある言葉です。

 

神の霊は、暴力的に息巻く原初の世界を、自由にふわふわと動いていたということになります。

 

聖書の書き手は、先ほどまでの暗く重苦しい雰囲気のことばに、この優しく軽い対照的なイメージを持つ言葉を配置することによってギャップをつくり、絶望の世界に対峙した神の姿を表現しています。

 

さて、最初のことばから今までを受けて、原初の世界の全体像はまとめるのであれば、「荒涼とした虚無というにふさわしい大地を、絶望というにふさわしい塩水が覆い、更にその上を混沌が覆っていた。しかし、更にその上を神の霊が優しく覆っていた」ということになります。

 

「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」とは、まさにそのような様相を呈した原初の世界の状況を説明することばだったということが分かりました。

 

繰り返しになりますが、聖書の関心は、原初の世界がどうであったかという所にはなく、あくまでも人間に必要なテーマへと向かいます。

 

ここで、人の必要を満たせるものとされているのは、神が人の為に如何にして絶望の世界に対峙していたのかという点にあります。

 

そこに、私たちに向けられているこの文章全体が伝える中心的なメッセージがあるのです。

 

また強調しておきたいことは、聖書に書かれていることは、ここで取り扱っている言葉だけでなくて、すべて神への信頼を促すという目的を持っているということです。

 

あるときは、神を信じないものの生き方、考え方が如何に虚しく欺瞞にあふれているものなのかをむき出しにして、神の正当性を主張することによって、読み手を神への信頼に導きます。

 

ですから聖書のことばは、時にこの世の中に生きる我々にとって刃物の様に突き刺さることがあります。

 

あるときは神の全能の力を通して、又あるときは、神の愛を通して、様々なアプローチをして、神は信頼に足る存在であるということを証言しています。

 

人が一人で生きていけるような思想的なサバイバル技術を紹介するのが哲学書であったり、他の宗教の教本なのに対して、聖書は、人は神に依存して、神という存在を信頼することによってのみ生きていけると教えていて、一貫して神への信頼を説いているのです。

 

この箇所について言えば、神の性質、即ち、神はどのような存在なのかということを表現することによって、読者に神への信頼を促しています。

 

つまり、神とはいったいどういう存在なのかということを知ってもらうことによって、読み手の必要を満たそうとしているということです。

 

では、ここで教えられている神の性質とは何なのかと言えば、少し難しい専門用語で「遍在性」と言います。

 

偏在性というのは「いつ、どこにでも存在する性質」を指す言葉です。

 

神は永遠の昔から、今現在、そして永遠の未来に至るまで、同時にしかも、どんな場所にも存在するということです。

 

無であろうとも、有であろうとも、闇であろうとも、光であろうとも、絶望であろうとも、希望であろうとも、天であろうとも、地であろうとも、或いは、江戸時代であろうとも、現代であろうとも、北朝鮮であろうとも、日本であろうとも、時間や空間等の実存的なものや、概念的な束縛を受けずに、神はいつ、どこであろうとも「ある」ということです。

 

この箇所について言えば、「絶望」や「闇」「無」「混沌」という概念を超えたところで、「神」を登場させることによって、神の遍在性を、即ち、神はいつどこにでも存在するということを表現しているということになります。

 

これは聖書全体に一貫している神の性質なので、少し難解ですが、覚えていただきたい真理です。

 

神は天国という別の次元から、地上を見下ろしているというのは、極めて現代的な思想に絡めとられた神に対する認識であって、聖書はそう教えていません。

 

神が今か今かと絶望に介入しようと、その時を、天国的な別次元からではなくて、世界の傍らで、絶望のすぐそばで、感情を揺さぶりながら待っているというのです。

 

これは、原初の世界の状況を説明したものでありますが、現代に生きる我々にも訴えかけるものがあります。

 

原初の世界のような、混迷の時代を生きている我々は、時に神も仏もあるものかと、こぼすことがありましょう。

 

世界に目を向ければ頭を抱えたくなるような隣国ばかりだし、国内に目を向ければ課題が山積しています。

 

又、自分の周りの環境に目を向けても家庭の事であったり、職場でのことであったり、このご時世、希望を見出せない人が多いのではないかと思います。

 

そして、人生を散々悩んだ挙句、すべての人に絶対待っているのは「死」という絶望、圧倒的現実です。

 

しかし、そのような希望を見出せない時でこそ、ここで取り扱っている、この言葉が生きてくるのです。

 

絶望だと思っている時にこそ、人は希望を見出そうとします。

 

問題のある隣国があるならば、強国を味方につけようと画策します。

 

国内の政治に問題があるならば、カリスマ的政治手腕を持つ政治家を探します。

 

又、自分の身の回りに問題があるのなら、家族や友人など信頼できる人に問題を打ち明けます。

 

そのようにして、人は絶望に耐えることができないので、常に希望を見出そうとする習性があります。

 

しかし聖書は、その様にして希望を求めている人に、ここで「神を希望とする」ことを提案しています。

 

この世の中の示す希望というのは、常に一時的なものです。

 

強国はいつかは廃れます、政治家も、いつかは力を失い失脚します、信頼できる人もいつか死にます。

 

人がどんな理屈をこねようとも、死という絶望は絶対に超えられません。

 

死という人間にとって最終的な所に目を向けるのであれば、この世の中の示すどんな希望も、結局はその場を凌いでいるにすぎないということになります。

 

それに対して聖書は、その場しのぎの様な希望ではなく、神に希望をかけることによって、生きていくことを強く勧めているということです。

 

聖書は、神はいつどこにでも存在しているとしています。

 

隣国に失望している時も、政治家に失望している時も、信頼できる人に失望している時も、或いは、死という絶望に際しても、神はすべての問題を解決する力をもって、そこに存在していると聖書は教えているのです。

 

神は死という概念を超えて存在しているので、死ですら問題ではありません。

 

一時的な希望ではなく恒久的な希望、即ち、神を希望とすることによって、世の中のあらゆる出来事に左右されない、一喜一憂しないぶれない人生を送ることを勧めています。

        
原初の世界だけでなく、今も同じく生きている神は、この世界の闇を、或いは、あなたの心の闇を見て見ぬふりは決していません。

 

むしろここで書かれているとおり、今か今かとその介入の時を、気持ちを大きく揺さぶりながら待っておられるのです。

 

今、解決不能な問題の中で苦しみもがいている人がいるならば、この言葉をもって、今まさに神があなたの問題に介入をしようとしておられることを知り、また認め、聖書の教えるこのことばに目を留めてみてはいかがでしょうか。

 

もし、目を留めるのであれば、問題は依然として佇んではいるものの、絶望の世界を神の霊が覆っていたように、あなたの心の闇を覆い、神があなたと共に苦しんでくださいます。

 

そして、もしあなたが神にその問題を委ねるならば、どんな問題でも最終的には解決されます。


神には不可能が無いからです。

 

神は、その希望にあなたが与ることを今か今かと待っておられ、あなたの人生への介入の時を伺っておられます。

 

絶望の先にいる神に信頼するのであれば、だれでも、どこにいようとも、どの様な境遇にあろうとも、決して取り去られることがない、永遠に続く希望に与ることが出来ます。

 

是非、このことばをもって神に信頼してみてください。

 

4.「まとめ」  

「地は茫漠として何もなく」という言葉は、神が創造する前の世界は「無」であったと説明している

「闇が大水の面の上にあり」という言葉は、神が創造する前の世界は「絶望」であったと説明している

「神の霊がその水の上を動いていた」という言葉は、神が人類の為に絶望に介入しようとしている姿を表現している。

 

「ご紹介」

1.サムネイルの絵

鳥獣戯画『呪いの墓場』

サムネイルの絵のタイトルは、鳥獣戯画「呪いの墓場」です。

 

これは、「ぎなた読み」という、語句の区切りを間違えて読んでしまい、結果2つの意味を持つ文章になることを、絵に応用して意味を表現した鳥獣戯画です。

 

墓場に行く、即ち「死ぬ」ことを軽視し、ましてや笑いに変えて、絶望を少しでも薄めようとする、現代人の可笑しげな傾向が表現されています。

 

2.聖書をお求めの方へ

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『都市伝説』聖書から日ユ同祖論を批評する。

こんにちは、来栖川クリスです。

今回は巷でまことしやかにささやかれている「日ユ同祖論」について、キリスト教伝道者が、聖書からしっかりと批評していきます。


本記事は、聖書と深いかかわりがある都市伝説、日ユ同祖論は、本当のところどうなのかを知りたい方必見です。


聖書から、日ユ同祖論の是非を、簡単に知ることができる内容となっておりますので、是非ご利用ください。

 

目次

  1. イスラエル北王国の10部族の離散
  2. 日本人とユダヤ人の遺伝子学的な近さ
  3. 聖書の記述
  1. イスラエル北王国の10部族の行方
  2. サマリヤ人という人種の存在
  3. 聖書の記述の正しい解釈 

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日ユ同祖論とは

本論に入る前に、日ユ同祖論とは何かを簡単に説明します。

 

日ユ同祖論は、日本人とユダヤ人が同じ祖先を持つとする説のことを指します。

 

この説によれば、日本人とユダヤ人は古代に共通の起源を持ち、言語や文化、民族的特性などが似ているとされています。しかし、この説は歴史的な証拠には基づかず、科学的には根拠がないため、都市伝説とされています。

 

元々は、近世に来日したイギリス人宣教師が、日本に移住したときに提唱した説と言われています。

 

現代、メディアの発達により多くの人たちに知られ、特にオカルトや陰謀論と結びつき、再び脚光を浴びるようになりました。
     

今回は、そんな日ユ同祖論について迫っていきます。

 

ユダヤ人の定義

日ユ同祖論を語る上で、最も重要なのは、ユダヤ人とは何を指すのかを明らかにすることです。

    
先ずユダヤ人とは何なのかを知らなければ、具体的に、日本人とユダヤ人の何が共通しているのかが分からないからです。

    

一般的にユダヤ人とは、広義的にイスラエル民族全体を指す場合と、狭義的にイスラエル王国分裂後の南朝の3部族である、ユダ族、ベニヤミン族、レヴィ族を中心とした共同体を指す場合の2通りあります。

 

前者の民全体を指す場合は、旧約聖書の神と契約を交わしたというアブラハムと言う歴史上の人物の正当後継者である、ヤコブの12人の息子から出た、12の部族からなる民族を指します。

 

ヤコブは、祖父アブラハムの契約を継承するにあたり、様々な試練を経ますが、その過程で神から新たな名である「イスラエル(神と共に戦う)」という名を与えられます。故にその子孫たちは、祖先であるイスラエルという名を屋号としているわけです。

 

後者のイスラエル南王朝だけを指す場合は、イスラエル民族が国家として歩み始め、しばらくたったある時、骨肉の争いによって王朝が分裂し、北方に別れたエフライム族中心とした、北王朝の10部族を除いた3つの民族を指します。


北が10部族なら、南は2部族ではないのと思われた方がいらっしゃると思いますが、レヴィ族という部族は、割り当ての地を持っておらず、根無し草で、北南問わず各地に点在していたので、重複していますことをご理解ください。

 

南王朝は、ユダ部族を中心とし、王朝を定めていたので、ヤコブの子ユダの名前から因んで、ユダヤを屋号としました。

 

ユダヤの意味は、ユダは「ほめたたえる」であり、「ヤ」は神を指すえん曲語で、「神をほめたたえる」というニュアンスがあります。

 

北王朝から分裂したときに、我々こそが真に神をほめたたえる国であるというプライドがあったのでしょう。

 

ユダヤ人という言葉は、今では圧倒的に12部族全体を指す総称として用いられることが多いですが、厳密にはその内の一部族であるユダ族を指す方が正確です。

 

日ユ同祖論を論じる場合も、同様にイスラエル民族全体を指す意味での、ユダヤを前提として、ヤコブを共通の先祖に持つという主張が展開されています。

      

 

日ユ同祖論者の主張

日ユ同祖論を支持する人は、以下の3つの主張を前提としています。


これから紹介する説は、科学的な根拠はなく、あくまでも推測の域を出ないのでご理解ください。

         
しかし、科学的でないからと言って、即座に真実ではないとは言えないからこその都市伝説です。

 

それを聖書から批評し、皆様に本当にそこにロマンを求めることが出来るのかを迫るのが本記事の目的ですが、先ずは日ユ同祖論の主張を見なければ何も始まりません。

 

1.イスラエル北王国の10部族の離散

イスラエル王国は、南北分裂以降、国力が弱体化した。

 

北王朝はアッシリア帝国によって滅され(紀元前722年)、捕囚政策の中で上流階級の者を中心に捕囚の身となった。

 

アッシリア帝国サルゴン王(紀元前722年~紀元前705年)によって滅ぼされた北王国は、当時の碑文によれば、およそ2万7290人が捕囚されていると確認できる。

 

捕囚民の数は、当時の北イスラエルのおよそ20分の1ほどであり、実際はほとんどの民が現地に残された。

 

しかし、その後の足取りはハッキリとはわかっていない。

 

一部は、周辺諸国の民族と混血し、埋没したことは明らかであるが、聖書外典や偽典等の伝承によれば、信仰を阻害されない未開の地を目指し、離散したと考えることも十分に可能である。

 

離散したイスラエルの民がたどり着いた地の中で、日本も可能性としては排除できない。

 

2.日本人とユダヤ人の人類学的な近さ

多くの日本人の遺伝子配列は、古代イスラエル民族に近いと指摘されている。

 

特にアイヌ民族琉球民族などの先住民族に関しては、その特徴が顕著である。

 

具体的には、遺伝子情報の伝達を担う染色体、特に父系によって定まるY染色体の変異型が、古代イスラエル民族と類似しているということである。

    
日本人の多くに見られるY染色体変異型が高頻度で見られるのは、ほかにチベットのみであり、日本特有のものとみることも可能。

     
つまり、日本古来の人類学的特徴が、離散したイスラエル民族と同質のものとなれば、日本人とユダヤ人は同じ祖先を持っていたと考えることもできる。

 

3.聖書の記述

聖書の記述の中には、日本に関する預言とおぼしきものが見受けられる。

 

代表的なのは、以下の聖句である。

 

また私は、もう一人の御使いが、日の昇る方から、生ける神の印を持って上ってくるのを見た。彼は、地にも海にも害を加えることが許された四人の御使いたちに、大声で叫んだ(ヨハネ黙示録7章2節)。

 

黙示録7章は、聖書に預言されていた終末時代の裁きに際し、神に選びだされたイスラエル12部族が守られることを表している。

 

「日の昇る方」というのが、最も当てはまる国として挙げられるのは、現代に適用して考えれば、一般的に日本であると言える。

 

紀元70年のエルサレム陥落以降、イスラエル民族は正確に自分の家系図を知ることができない。

 

しかし「日が昇る方から~来る御使い」、即ち「遠方に散らされたユダヤ人の末裔である日本人」たちが、本来のユダヤアイデンティティーを取り戻した時、そこに真のイスラエル王国の国民が現されると解釈することが出来るのではないか。

 

批評

日ユ同祖論は、今回取り上げた主張のほかにも様々なものがありますが、聖書というユダヤ人の歴史書が無ければ、どれも論ずることは不可能です。

 

したがって、聖書から日ユ同祖論を批評することは、説の是非を判断する上で、最も重要であると言えるでしょう。

 

本記事は、あくまでも聖書から日ユ同祖論を批評することが目的ですので、科学的なアプローチはしないことを、ご理解ください。

   

1.イスラエル北王国の10部族の行方

聖書は、イスラエル北の10部族を、失っているとはしていません。

 

根拠となる聖句はいくつもありますが、代表的なのは以下です。

    

彼らはこの神の宮の奉献式の為に、雄牛百頭、雄羊二百匹、子羊四百匹を捧げた。また、イスラエルの部族の数に従って、全イスラエルの為に罪のきよめの捧げものとして、雄やぎ十二匹を捧げた(エズラ記7章17節)。

 

これは、イスラエル北王国の捕囚約130年後、南王国がバビロン帝国に捕囚(紀元前609年頃~紀元前586年)され、預言通り70年後帰還し、神殿が復興したときの、奉献式の生贄の内訳です。

 

「全イスラエルの為に~雄やぎ十二匹を捧げた」とありますが、明らかに12部族の為に12頭の生贄が捧げられています。

 

確かに北王国が、アッシリア帝国により蹂躙されたことによって、10部族は壊滅的になりましたが、南王国のイスラエル帰還(紀元前539年頃)に合わせて、北の居残り組が合流したことがうかがえます。      

 

また、イスラエル復興期から約400年後、新約聖書の時代においては、12部族がイスラエル国内にいることが常識となっています。

 

私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでいます(使徒の働き26章7節)。

 

神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族に挨拶を送ります(ヤコブの手紙1章1節)。

 

これらの聖句は、新約聖書からの引用です。

     
以上のことから、北王国の10部族は、聖書では失われていないと扱われていることが分かります。

 

但し、新約聖書の時代において、北王国の捕囚以降、南王国の3部族、レヴィ族、ベニヤミン族、ユダ族以外の9部族に関しては、系図が正確に追えなくなっている可能性は大いに考えられます。

 

北王国滅亡以降、聖書に9部族の固有名詞があまり用いられないのは、その為なのかもしれません。

 

しかし、それをもって10部族が失われたとは言えません。

 

2.サマリア人という人種の存在

聖書には、サマリア人という人種が存在します。


サマリア人とは、イスラエル北王国が捕囚政策にあった時、国に居残った民と周辺民族との混血民族のことを指します。

 

つまりはハーフです。

 

聖書は、ユダヤ人の血をどの民族よりも色濃く継いでいるサマリヤ人を、ユダヤ人とは認めていません。

    
理由として最たるものは、宗教性の違いが挙げられます。

 

南王国の帰還以降、サマリア人たちは、北王国の10部族と同じように合流し、神殿復興工事を手伝うことを申し出ました(エズラ記4章1節~2節)。

 

しかし、当時の南王国の帰還民の指導者エズラは、サマリヤ人はユダヤ人ではないという理由で許可しませんでした。

 

これを皮切りに、サマリア人たちはユダヤ人と互いに憎み合うようになり、自分たち独自の礼拝の場をゲリジム山(現パレスチナ領)という山に築きます。

 

彼らは、同じ神を拝んでいましたが、互いの礼拝の場を互いに受け入れず、互いに異端であると主張するようになりました。

 

サマリヤ人に関しては、ユダヤ人の聖地であるエルサレムに死体を投げ込み、礼拝を妨害していたほどでした。

     

このいさかいは、新約聖書の時代にまで続いています。

 

私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなた方は礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています(ヨハネ福音書4章20節)。

 

この聖句は、ユダヤ人であるイエス・キリストに、サマリヤ人の女が、真の礼拝の場所はどちらかを尋ねている個所です。

 

サマリヤ人のユダヤ人対する関心事が 礼拝の場所であることがよく表されています。

 
逆に、ユダヤ人の彼らに対する関心事も同様でしょう。

 

何故聖書の神を信じると言いながら、聖書に書いてある通り、エルサレムの神殿で礼拝しないのかと。

 

こういった背景も相まって、ユダヤ人とサマリヤ人との溝は深くなり、血の問題よりも大きな宗教的問題を抱えるようになってしまいました。

 

以上のことから、ユダヤ性は、遺伝子のような人類学的なことよりも、宗教性に依存していると言えるでしょう。

 

ましてや、サマリア人よりも確実に血縁的に離れ、聖書の神を一ミリも知りもしない宗教的にもユダヤ人とかけ離れている日本人が、彼らと同祖であると取り扱われる道理は、聖書にはないのです。

 

3.聖書の記述の正しい解釈

聖書には、日本に関する預言とおぼわしきものがあるということが、日ユ同祖論者及び、一部の牧師や学者の間で提唱されています。


しかし聖書には、日本、或いは日本人と言う概念は一切想定されていません。

    
先ほども取り上げた聖句を例に挙げてみます。

     

また私は、もう一人の御使いが、日の昇る方から、生ける神の印を持って上ってくるのを見た。彼は、地にも海にも害を加えることが許された四人の御使いたちに、大声で叫んだ(ヨハネ黙示録7章2節)。

 

確かに黙示録7章は、聖書に預言されていた終末時代の裁きに際し、神に選びだされたイスラエル12部族が守られることを表していると、解釈が可能です。

 

しかし、「日が昇る方」というのは「日本」とは解釈できません。

 

これは聖書全般に言えることですが、「日が昇る方」とか、太陽が昇る方角である「東の方」とか言った場合には、イスラエルの国境線を縦断しているヨルダン川、以東の地を指します(例:列王記第一5章10節、イザヤ書2章6節、24章15節、46章11節)。

 

つまり、イスラエル領の外側に広がる地、聖書の言葉を借りれば「異邦人の地」全体を指す、えん曲語であるということです。 

 

異邦人とは、非ユダヤ人を指す言葉でありますので、外国人を表現する言葉となります。

 

幼子イエスを、星を追ってはるばるペルシャから訪ねてきた東方の博士たちも同様に、外国人です。

     

西に地中海をいただくユダヤ人達にとって、東方こそが外国人が住む地の代名詞でした。

 

以上のことから、聖書が、日が昇るとか、東の方とか言った場合、日本のことに言及していないのは明らかです。

 

聖書に、他に日本を限定して指していると思われるようなワードはありません。

 

故に、聖書の記述から、日本人とユダヤ人が同祖であることを証明するのは不可能であると言えます。

 

まとめ

日ユ同祖論とは、日本人とユダヤ人が同じ祖先を持つとする都市伝説のことである

ユダヤ人をどの様に捉えるのかは、日ユ同祖論を論じるうえで重要である

日ユ同祖論の主張は以下である

①イスラエル10部族は離散し、日本にたどり着いている可能性がある

②日本人とユダヤ人は、人類学的特徴が類似しているので、同祖である可能性がある

③聖書の記述の中にも、日ユ同祖論を支持しているとおぼしきものがある

批評①イスラエル北王国の10部族は失われていない

批評②サマリヤ人がユダヤ人ではないとしたら、日本人はユダヤ人ではありえない

批評③聖書に日本、或いは日本人という概念は無い

 

さて、いかがでしたでしょう。

これが、巷で噂されている都市伝説の真実です。

この事実、受け入れるか受け入れないかは...

 

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聖書の名言 「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1章1節)

こんにちは、来栖川クリスです。

 

今回は聖書の名言である「はじめに神が天と地を創造された。」の内容を、キリスト教伝道者が分かりやすく解説していきます。


本記事は、聖書のことばにすこしだけ触れてみたいと思っておられる方必見です。


聖書を読むうえでの大前提となる世界観とは、一体何なのかを簡単に知ることができる内容となっておりますので、是非ご利用ください。

 

「はじめに神が天と地を創造された。」という聖書に一番最初に書かれているこの文章は、聖書の世界観を最もよく言い表しています。

 

たった四つの「はじめに」「神が」「天と地を」「創造された」という言葉 で構成されたこの一文は、およそ文章としては、おそらく世界中で最も読まれ、また人々に影響を与えたものと言えるでしょう。

 

何故なら世界で最も読まれている本、聖書の一番初めに書かれている一文だからです。

 

この言葉は一見大雑把で、シンプルですが、これ以上ないほどに洗練され、考えれば考えるほど祝福のある言葉なのです。

 

今回は、この文を構成する四つの言葉、「はじめに」「神が」「天と地を」「創造した」というこれらの言葉を逆さまに「創造した」「天と地を」「神が」「はじめに」と言った具合に、それぞれの言葉が持つ意味を、一つ一つなるべくわかりやすく解説したいと思います。

 

「目次」

  1. 「創造された」
  2. 「天と地を」
  3. 「神が」
  4. 「はじめに」
  5. まとめ

「ご紹介」

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1.「創造された」

「初めに、神が天と地を創造された。」先ず「創造された。」という言葉に注目していただきたいと思います。

 

聖書の一番最初に記されている、このことばが書かれた時、様々な宗教、神話がすでに提示されていました。当時の世界の中心は中東です。

 

メソポタミア文明」と人類歴史で位置づけられている、その時期その場所において、この言葉は叫ばれました。

 

古代メソポタミアでは多神教が主流で、日本でも有名な、創作物にもよく用いられるエジプト神話はもちろん、後に西洋のオカルトや占星術にその概念が引き継がれるバビロニア神話等、様々な世界観が乱立していました。

 

それらの古代中東神話に共通して言えるのは、人や自然に対する神格化です。太陽や月、星、そして王などが礼拝の対象としてみられていました。日本の神話も同様ですよね。

 

そのような世界観が常識として定着しているただ中で、この「創造した」という言葉は、人や自然は礼拝の対象となるものではなく、即ち「神」ではなく、それらは「創造された」ものであることを宣言しているのです。
              

              

古代中東において叫ばれたこの言葉は、現代の、ここ日本に生きる我々日本人にも向けられている言葉であると言えます。

 

我々日本人は、神羅万象すべての物に価値を認めることのできる素晴らしい民族です。

 

故に、自然と共存し、そこに価値を認め、そして時にそれを神と呼びます。

 

自然というものから神というものを感じるその豊かな感性と、霊感という部分においては、素晴らしいと思います。

 

しかし、信仰の本質についての理解は、世界に大幅に後れを取っているのです。

 

しばしば日本人は自身を「無宗教」と主張することがありますが、その主張が通用するのは、この日本という国だけと言っても過言ではないでしょう。

 

というのも、日本以外の国においては、何かを信仰しているということを認めることが当たり前だからです。

 

日本人の信仰についての理解が遅れている理由の大きな要因は、現代日本人の宗教観にあると思います。

 

日本人は、自分にご利益があると思うものに関しては信じ、自分にご利益が無いと思うもの関しては、たとえそれが真理であると考えられるとしても、受け入れない傾向にあります。

 

また、それがまるで、神と呼ばれるものを信じるときの、あたりまえな態度として定着しているのです。

 

故に、正月には神社にお参りをし、結婚式は教会で催し、葬式はお坊さんを呼んで弔っていただくというようなことが当たり前の常識として浸透しているのでしょう。

 

それにもかかわらず、自分たちは「無宗教」であると主張するのです。

 

これが信仰の本質たってみた日本人の宗教観であり、この様な体系に基づく信仰を「ご利益信仰」と言います。

 

このような信仰は、はたから見るとすごく不自然に見えましょう。

 

海外の人が「信仰」というと、ニュアンスが全然違います。

 

と言いますのも、海外において、信仰というのは、「手を合わせるものに対して全面的に信頼する」という意味が強いからです。

 

そして、それが本来の信仰という言葉の意味でもあります。

 

私が信仰の理解について、日本は世界に「後れを取っている」とあえて申しましたのは、日本人の信仰に対する理解は、海外では通用しないということよりも、信仰しているものを本質的には認めず、定めないという風見鶏的な態度が正しいと思っていることが、真実、或いは、真理を遠ざけてしまう可能性があるからです。

 

 

日本人の「無宗教」と主張している方とお話すると、直接的に言われることはありませんが、私は考え方において「すべて中立である」という主張がその背後に隠れているようなところが言葉の端々から伝わってきます。

 

その様な主張を、「私は無宗教だ」と言う事によって、暗に表したいという事でしょう。

 

この態度は、正しい意見も、間違っている意見も吟味することができる中立的立場で、一見賢明に見えますが、「自分は必ず正しい判断ができる」という考え方が根底にあるので、むしろ「無宗教」であるとする態度は、独善的で偏った考え方になってしまう危険性があります。

 

或いは、自分の思想的立場をを明らかにしたくないという弱さの裏返しであるとも言えるでしょう。

 

自分が本来信じているものを認めず、あくまでも客観的であるという予防線を張ることによって、本来自分が信じているものを否定される可能性を恐れている部分も、根底にはあると思います。

 

この考え方は、他人の宗教観を極端に遠ざけてしまい、真実や真理から遠ざかってしまう可能性がある為、私はあえて「遅れている」と申し上げました。

 

 

人間は常に何かを信頼して生きています。

 

何にも依存しないで生きられる人間はこの世に一人もいません。

 

ある人は神と呼ばれるものを信頼し、礼拝します。

 

またある人は他人の考え方を信じ、参考にして賢明に生きようと努めます。


神と呼ばれるものも、他人も信用しないというのであれば、それは自分自身を信じているのです。

 

これが信仰の本質から見た人間の本性なのです。

 

誰しもが、何かを信仰し、何かを神としています。

 

また、自分が拠り所にしているものに、何かしらのかたちで、礼拝しているということができるでしょう。

 

自分が、魂の奥底で信頼を置いているモノ、それがその人にとっての神です。

 

つまり、信仰という言葉が当てはまらない人は、この世には存在しないということが可能でしょう。

 

そして実は、信仰すると言ったときに、「神を信じているか」、「信じていないか」という二択ではなく、「何の神を信じているか」という一択であるということも、見出すことができます。

 

日本人の多くは、この信仰の本質を理解していないので、自分は何かを信仰しているということを認めようとはしません。

 

海外の人たちは、潜在的に信仰というものを理解しているので、本質をとらえ、また信仰する対象に、ある程度信頼を置いているからこそ、自分はこれを信仰していると正直に言い表すことができるのです。

 

故に海外に行くと、何かを信じているという前提のもと、「あなたは何の神を信じていますか」と、しばしば聞かれるわけですね。

 

日本人は誇らしげに私は「無宗教」ですと言ってのけますが、それは不自然なことであり、要は質問に答えていないだけなのです。 

 

古代中東に生きた人々も、現代に生きる我々も、すべての時代のすべての人が同じように何かを信仰して生きています。 

 

当然我々も例外ではありません。

 

だからこそ、ここで取り扱っている「創造した」という言葉は、現代を生きる日本人にも向けられている言葉であると申しました。

 
           

聖書の「創造した」という言葉は、古代であろうと、現代であろうとも同じ様に、人や自然は礼拝の対象ではなく「創造された」ものであるということを宣言しているのです。
              
すべての時代の、すべての人類に向けられているこの宣言は、いったんあなたを立ち止まらせ、あなたがたとえ知らずとも信仰している存在が、本当に信頼されるべき「神」なのかを考えさせます。

 

また同時に、創造された人類が、本当に礼拝するべき存在、即ちすべてを「創造した」本当の神である、「全知全能の神」に心を向けさせる言葉なのです。

 

あなたが意識せずとも信頼し、寄り頼んでいるもの、即ち「あなたの神」について考えてみていただいて、本当にその神はあなたの全身全霊を委ねる価値があるのか、あなたを救うことのできる存在なのかを、この「創造した」という言葉をもって熟考してただきたいと願います。

 

                              

さて、「創造した」という言葉を見ていきました。では、何を創造したというのでしょうか。

 

「天と地を」です。

   

2.「天と地を」

次に「天と地」という言葉に注目していただきたいと思います。

 

「天」と「地」を、この表現は両極のもの指して 全体を意味する修辞的な文学表現であります。

 

つまり、ここでの意味は「この世界のすべて」という事になります。

 

この様な文学表現は、聖書でよく用いられます。

 

例えば、この後2章に入ると、あの有名なアダムとエヴァのお話の中で、エヴァが禁断の果実に手を伸ばす場面が描かれますが、その場面にもこの表現は用いられています。

 

その禁断の果実がなっていた木の名前が「善悪の知識の木」と言いますが、ここでも「善」と「悪」という両極を指して、全体を表現しています。

 

即ち、ここでは、善と悪についての知識という事だけでなく「すべての知識の総体」という意味です。

 

つまり「天と地を」というこの言葉は、「神はこの世界のすべてを造った」という聖書の世界観を説明している言葉なのです。

 

文字通り、この世界の「すべて」をということです。

 

当時礼拝されていた太陽や月、星や人、又、時間という概念ですらその範疇に入ります。

 

この世のすべてを造った全知全能の神は、すべてを超越していることを、「天と地」という言葉をもって表現しているのです。
              

 

現代において、この言葉はどのようなことを訴えかけているでしょうか。

 

現代に話を移したいと思います。

 

 この世界の多くの人が、特に無神論者の方のほとんどが、偶然という力が、偶然を呼んでこの世界のすべてが存在しているという世界観に生きています。

 

つまり、この世界は「偶然」という何にも治められていない気まぐれな力が、ある時、急にこの世界を生むきっかけとなったと信じているのです。

 

即ち、先程の話を踏まえるならば「偶然」という神を信仰していると言ってもよいでしょう。

 

 ハッキリと偶然によってこの世界が始まったと考えを定めてはいなくとも、ぼんやりとその様に考えている人が多いような気がいたします。

 

そのような考え方の代表格として、ビックバン理論などが巷では常識ですよね。

 

ここではその様な科学的な理論に対して反論するつもりはありません。

 

何故なら、聖書の世界観、即ち創造論の立場から、この世界の始まりについて科学的な理論と対決するならば、結局のところ無から有の創造は可能なのか、という話になってしまい、悪魔の証明を要求するような、不毛な水掛け論になってしまうからです。

 

無からの創造について、人間がその知識についてすべてを知ることはおそらく不可能でしょう。

 

人間にその知識を極めることは許されていないと思います。

 

また、聖書はあくまでも宗教的な目的をもって書かれている書物でありますので、あくまでも宗教的なアプローチでもって論じていきたいと思います。

 

もしも、この世界が「偶然」によってできたとするならば、それは、我々人類も偶然によって生まれたとすることです。

 

その様な世界観においては、我々人類は自分たちの存在理由を、決して見出すことができません。

 

そして、偶然を信じているならば、「あなた」という一個人の存在理由をも見失なってしまうのです。

 

人類として、共通の存在理由が見いだせないのであれば、その中の一個人であるあなたの 存在理由も見出せないでしょう。

 

 

「自分は何のために存在しているのだろう」

 

この誰もが一度はぶつかったことのある問いに対し、誰もが自分なりの考えを持っていると思います。

 

ある人は、仕事にその答えを求めます。

 

一生懸命働くことによって、他者に認められ、そこに自分の存在意義を見出し、社会の中で自分の立ち位置を確保して、取り敢えずの充足を見出そうとします。

 

またある人は、快楽にその答えを求めます。

 

人生には大した意味は無いとし、自分の快楽ををひたすら満たすために奔走します。

 

自分の人生の意味をを巡って様々な人が、様々な考え方で「自分は何のために存在しているのだろう」という混乱を必死で凌いでいます。

 

しかし、その一方、心のどこかで何かがおかしいと思っている方が多いのではないでは無いかと思うのです。

 

コロナウィルス騒動は正にその様な、人の本性をあらわにしました。

 

自分の仕事に答えを求めていた人は、仕事が奪われたとき、一歩踏みとどまって、自分の存在理由について 考えることを迫られたことでしょう。

 

快楽に答えを求めていた人は、強制的に動きを制限されることで、今まで大して目を留めていなかったであろう人生の意味について、考えざる終えなくなったことでしょう。

 

しかし「偶然」という世界観の中に生きている限りは、カンフル剤の様に一時を凌ぐための考え方は導き出すことはできるかもしれませんが、納得のいく答えは見つけることはできないと思います。

 

自分の存在すら偶然によって無意味なものとしてしまっているわけですから、当然と言えば当然かもしれません。

 

結局人間は、自分の始まりをどの様に理解しているかによって、生き方が変わってきます。

 

もしも、自分はビックバンという原初の世界に「偶然」起こった大爆発によって、「偶然」できた宇宙の中に、「偶然」形成された地球の、「偶然」生じた生物の突然変異によって、その進化の過程で「偶然」生まれた人類という種の中の一個人である。

 

というように、自分の始まりを説明するのであれば、はっきりとそう認めては いなくとも、本質的には無意味な生き方をすることになります。

 

あなたを生み、育んでくれた母という存在や、あなたを何時も助けてくれる親友という存在、また、常に傍らに寄り添う妻や恋人という存在に対してですら「偶然そこにいる」、という無意味な説明をするほかないのです。

 

この世界が無意味に始まったとすれば、その後に生じるどんなものも無意味であるということになります。

 

 

人間が、ロボットの様な感情の無い無機質ものとして、この世界に存在していれば、そのような解釈で生きてゆくことは可能でしょう。

 

しかし、実際、人間はその様な生き方に耐えることはできないのです。

 

だからこそ、 占いやオカルト、スピリチュアル的なものに興味をしめし、身近な人との相性や、運命の人はいつ現れるのか、みたいなことを知りたくなるのでしょう。

 

何にも起因しない「偶然」という気まぐれで、つかみどころがない世界観の中で答えを求め、生きようとするのであれば、結局は儚い生き方を選び取るほかないということが、この現代人の姿から伺えます。

 

偶然という「神」はその様な生き方しか、人類に齎しません。

 

偶然は何も保証しません。虚しい世界に人をを閉じ込めてしまうだけなのです。

 

 

聖書の世界観は、この様な世界観とは真逆の立場をとっています。

 

繰り返しますが、「天と地を創造した」ということは、全知全能の神が「すべてを創造した」ということです。このすべてには私やあなたも含まれています。

 

つまり、全知全能である神が、天にあるものも、地にあるものも、私やあなたも、その英知をもって、計画された目的の為に創られた。

 

これこそ、この「天と地を」という言葉に集約されているメッセージなのです。

 

全知全能の神がもたらす世界観には、「偶然」という幻想が差しはさまる隙がありません。全てが、神の計画の中で起こります。

 

聖書の世界観に基づけば、あなたの職場で出会う人や、あなたの親友や、あなたの両親や、あなたの夫や妻、恋人との不思議な出会いには意味があると言えます。

 

当然、あなた自身の存在にも意味があると言えますね。

 

神があなたを造られたならば、それは、存在そのものが神の意志の表れだということなのです。

 

自分には何ができるか、できないかという問題も大事なことではありますが、先ず覚えなければならないのは、あなたは存在しているだけで意味があるということでしょう。

 

或いは、あなたの身の回りで起こる事も、すべてに意味があると言えます。

 

たとえそれが悪い事であっても、最終的には、どんなことでもあなたにとってメリットになります。

 

すべてが神の計画のもとに収斂しているからです。

 

神は人に、悪い計画や悪いものを与えようとは決してなさいません。

 

何故なら、われわれ人は神に愛されるために造られたからです。

 

それは神を信じ、聖書の世界観に生きる人には良い事しか起こらないという意味では無くて、どの様な場合においても、神の愛の計画のもとに置かれているということを認識することによって、一貫して喜ぶことができる希望が常にあるということです。

 

神の計画が愛であるということは、この聖書の世界観において神が創造されたとされる、自然界の秩序を見れば明らかです。

 

太陽は絶妙な光と熱をもって地球を照らし、温めます。

海は空に雲を生じさせて、雨を降らせます。

雨は作物に養分を与え、その実を実らせます。

全ては神が人に対して綿密に計画されたことです。

               
この世界観によるならば、何一つ偶然によるものは無く、すべては神によって造られたということができます。

 

そこにはもはや混乱はなく、むしろ一貫した、理性的且つ秩序ある人間本来の生き方があります。

 

「天と地を」という言葉は、そのようなメッセージを我々に伝え、人を本来あるべき生き方に導き、本来自分の存在理由を求めるべき存在である、全知全能の神に心を向けさせるのです。

 

 もしも、自分の存在理由を巡って思い悩み、その答えを探しておられるのであれば、先ず、あなたは「偶然」によって生じたのか、或いは、神と呼ばれるような存在に意図されて「造られた」のか。

 

言い換えれば、あなたは「無意味に生じた」のか、「意味あるものとして造られた」のかを考えていただきたいと願います。

 

そのうえで、もしも自分が無意味に生まれたとは思えないというのであれば、「天と地を」という言葉が示す聖書の世界観に、その答えを探してみてはいかがでしょうか、「偶然」という世界観の中に答えを探し、彷徨うよりもよほどいいと思います。

 

もしかしたら、神に造られた存在であるが故の、人類全員に共通する普遍的な答えだけではなくて、あなたがなぜ、個人的にそこに存在しているのかという答えをも、 或いは見出すことができるかもしれません。

                
               

さて、「天と地を」という言葉を見てまいりました。では、誰が天と地を創造したのというのでしょうか。

 

「神が」とあります。

 

3.「神が」

 

次に、初めに「神が」天と地を創造した、「神が」と書かれていることに注目していただきたいのです。

 

聖書の原語である古代ヘブライ語においては、少しニュアンスが違うものの、日本語訳では意図的に単数形が用いられています。
              

ここに注目すべき点があります。他の神話によく見られるような「神々」という複数形をあえて避けて書くことによって、「神は一つ」であると表現しているのです。

 

聖書が書かれた時代、古代メソポタミア創造神話において常識となっている考え方は、「神々が」各々の領域を悲観的な目的で造り、また、それを支配し、人間は神々の手に負えなくなった仕事の負担を減らす為に奴隷として造られた、という天地創造に対する消極的なものでした。

 

この考え方は、当時一般的であった、王を神の代理人とする古代の神権政治の国策的なプロパガンダとして、これらの神話が用いられていたということが影響していると思います。

 

宗教的な目的というよりかは、政治的目的が強かったからこそ人を縛り付けるような考え方が 一般的でったのかもしれません。

 

しかし聖書は、その様な世界観とは逆に、人の力など借りる必要のない全能の「唯一の神が」、人間の為にこの世界のすべてを造った。という天地創造に対する積極的なメッセージを表わしています。

 

唯一であり、全能の神が、即ち、何にも依存しない絶対的な存在が、この世のすべてを理想的にデザインし、造ったというこの世界観は、今ではどこか当たり前に聞こえてしまいますが、古代オリエント世界においては特に画期的な世界観であり、唯一無二でした。

 

つまり、この「神が」という言葉は、当時、今よりも多くあったであろう、無数の人を縛り付けている「神々」と呼ばれるものに対して、唯一、絶対的な存在の聖書の神は、その様な神々の一部ではないと明確に区別しているということです。

 

そして、それらを神とは認めないということも暗に表わし、神の主権を示しています。
             

                        

この言葉が、現代生きる我々にも同じメッセージとは何でしょうか。

 

この世界は、いわゆる啓典の民と呼ばれる、一つの神を信じている人たちが世界人口の半分を占めていると言います。

 

その内訳はユダヤ教キリスト教イスラム教です。

 

これらの人々は、同じ神の啓示による教典の一部を共有しているという事から啓典の民と呼ばれています。

 

今取り扱っている、旧約聖書の内の創世記の「神が」という言葉が、これらの人々に共通して信じられているからです。

             

つまり、数字を額面通り信じるのであれば、世界人口の半分以上が、「神は唯一である」と信じていることになりますね。

            


その様な現代の世界において、「グローバル化」という言葉が叫ばれて久しい昨今、「多様性」というスローガンのもと、思想をも一本化しようという動きが活発になり、世界が本格的に一つになろうと動き出しています。
             

そのような社会の流れと呼応するように、宗教の世界でも、「宗教多元主義」という言葉が流行しています。

 

この考え方は、すべての宗教には共通する思想が認められ、本質的なところで、同じものを認めており、同じ神を礼拝している、故に、この世の諸々の宗教と呼ばれるものは、互いに尊重することができる可能性があるので、最終的には一本化することができるという考え方です。

 

平たく言えば「いろいろな神があっていいじゃない」という考え方です。

 

これは、多様な考え方の中で一致を目指す現代的な考え方であると言えるでしょう。

 

この宗教多元主義が目指す宗教の一本化には、この「神が」という聖書の言葉を信じている、ユダヤ教キリスト教イスラム教の所謂「一神教」も含まれているのです。

 

しかし、宗教多主義を信じる人々、或いは日本人の大多数を含め、一神教への理解が乏しい人は、その本質を大きく見誤っています。

 

 特に多神教的な背景がある場所や、日本においては、「神は一つである」というと何か寛容ではないイメージを持たれる方が多いような気がいたします。

 

この日本においては「和を以て貴しとなす」という 言葉があらわす日本人の、他者を認め、秩序を保とうとする素晴らしい精神が大きく影響しているのではないかと思われます。

 

その様な日本人特有の精神に基づけば、「神は一つである」という思想は、他者を認めない不寛容で身勝手なものであり、時には争いを生む温床となる。と考えられてもおかしくは無いと思います。

 

しかし、実際はそうではありません。むしろ、これ以上寛容で、協調性があり、秩序のある真理はほかにありません。

 

どうか、一神教の本質を表わす、この「神が」という言葉について学んでいただいて、皆様の誤解を少しでも解くことができたならばと思います。

 

「神が」というこの言葉こそ、その一神教の本質が良く表れているのです。

 

                          

そもそも一神教というのは、「他の神を信じない」という絶対的な信念があります。

 

それは同時に、全知全能の神が、その完全な叡智に基づいて説いた教えのみを信じるということです。

 

  そのほかの教えは、人間から出た不完全なものであり、神が示した救いの道ではないので、他の教えは決して認めません。

 

神の教えを信じるということが神を信じるという事なので、神以外の教えを信じる という事は、神ではないものをを信じるということです。

 

神でないものを信じるということは、神を信じないという事なので、一神教の人々は、一神教であると唱っている以上、神が説いたものでない教えを信じることはできないのが道理なのです。

 

この信念は、全ての一神教の共通認識です。

 

この様な信念があるということを、先ず知らなければ一神教の本質を大きく見誤ります。

 

聖書に書かれている、この「神が」という言葉を信じている人たちは、「神々」という概念を認めることが教理的にできません。

 

他宗教から出た、如何なる考えも認めないので、宗教多元主義が目指す宗教の一本化された、いろいろな考え方が共存する世界は、一神教のあるところでは、決して実現不可能であると言えます。

 

 また、そもそも、すべての考え方を尊重するような考え方は、他者の考え方を認めないという一神教の考え方を認めることのできる寛容さは備わっていません。

 

「いろいろな神があってもいいじゃん」という考え方は、一神教の信念に基づく「一つの考え方しか認めない」という考え方を、論理的に許容することができないのです。

 

つまり、すべてを尊重しようとする考え方も、また不寛容だということができます。

 

宗教多元主義は、絵に描いた餅なのです。

 

宗教を一本化して考え方を無理やり合わせようとしても、そこに秩序はありえません。

 

「いろいろな考え方があっていいじゃん」という主張と「一つの考え方しか認めない」という主張は永遠にすれ違い、対立を続けます。

 

これは、正にかつて「神々」と呼ばれていたものを信じていた人々に対して、ハッキリと聖書によって、「神が」と宣言された時の対立構図と本質的な部分において同じです。

 

かつての様々な王達が、自分たちの神々を持ちながら、他の国の王の信じる神々を表面的に認め、絶妙に政治的な均衡を保とうとしていたのと同じように、現代では互いの思想を尊重し合い、他の国々文化、宗教等を表面的に、取り敢えず認めて、世界に新しい秩序を齎そうとしています。

 

しかし、 ‘‘きれいごと‘‘をもとに、人は一つになることはできません。

 

現に昔も今も同じように争いごとは絶えません。

 

如何に文明が発達しようとも、歴史は繰り返すのです。

 

 

古代も現代も同じ状況であるという事ならば、聖書の宣言する、古代に叫ばれた「神が」という言葉は、同じように現代に生きる我々に訴えかけていると言えるのです。

 

かつて「神々」と呼ばれるものを信じていた人々に、「神が」と宣言され、全く区別されたのと同じように、多くの現代人が言う「色々な思想があっていいじゃん」という考え方に対し、「一つの思想しか認められるべきではない」と明確に区別しています。

 

また、この言葉は同時に「多様性」という考え方の矛盾を、暗に示していると言えるでしょう。

 

「いろんな考え方があっていいじゃんという」視点から、「一つの考え方しか認められない」という考え方に対して、その考え方は排他的で不寛容であるとするならば、それは、一神教信仰を否定しているので、その考え方も不寛容であるということになります。

 

一神教信仰を否定する考え方は、世界人口の半分を敵に回す考え方であると言えるので、秩序や協調性はあり得ません。

 

あるとするならば、周りの顔色を窺いあう様な、かりそめの平和です。これは今の世界の姿そのままではありませんか。

           

             

しかし人々が、聖書の「神が」という言葉に基づき、一つの神を信じるならば、そこには真の平和があります。

 

そのためには、それぞれが、それぞれの神々を持つこと、即ちそれぞれバラバラの希望、目的を持つことを、残念ながら先ずやめなければなりません。

 

偽善的な人間の考え方を捨て、平和の神を信じることができるように、聖書は「神が」という言葉をもって、明確にこの世の中の考え方とは区別しているのです。

 

聖書の教えは、皆さまの人生の延長線上にある教えではなく、神を信じていない人にとっては別世界の教えであると言えるでしょう。

 

ですから、「神が」という言葉を前にしたときの反応は二通りに限られます。

 

神を信じ受け入れて、以前歩んでいた道を捨て、神に応答してその道に歩むか、神を信じないで、神の示した道を拒否するかのどちらかなのです。

 

常に人間は選択を求められています。その責任からだれも逃れることはできません。

 

これを見ている皆さまは、神の示された道を、今、目の当たりにしているのです。

 

皆様は「神か」、世の中の様々な考え方という「神々」か、どちらをを信じますか。

 

人類は一つの神のもと、一つの目的、一つの考え、一つの希望を見つめた時にのみ、一致した歩みをすることができると聖書は教えているのです。

 

そうなった暁には、そこには真の秩序が実現するでしょう。

 

神がその完全な英知でもって計画し、人間一人一人を創造したということであれば、それ故に人を尊重することができます。

 

人は存在しているだけで、神の意志の表れであるので、そこに互いを認めるべき理由を見出すことができます。

 

これこそ真に人を尊重し、認めるということです。

 

真に人を尊重することによって、真に人と人が協調することができます。

 

真に人と人とが協調することができれば、真の秩序が生まれるという道理です。

 

この「神が」という言葉は、一神教信仰の排他性を表わすことによって、一見聞こえがいい秩序なき幻想に人を向かわせることなく、真実に基づき、真理に人を導いています。

 

そして人の魂に充足を与え、頭ごなしに、暴力で無理やり世界に秩序を齎そうとはせず、先ず皆様の心に秩序を齎します。

 

人類には一つの目的があり、一つの真理のもとに存在しているとしなければ、世界の一致はありえないのです。

 

この「神が」という言葉は、その様な教訓を我々に教えてくれます。

 

      

さて、では、いつ神が天と地を創造したというのでしょうか。「はじめに」です。
         

     

4.「はじめに」

                       

「はじめに、神が天と地を創造した。」最後に「はじめに」という言葉に注目していただきたいと思います。

 

「はじめに、神が天と地を創造した。」ということは、「天と地」即ち「我々が存在している世界」が造られる前に、すでに神が存在したことを意味しています。

 

また、この「はじめに」という一言は、 神に造られた、人間の視点から見た「はじめに」であります。

 

他の神話や宗教がするように、人間の限界を超えたありえない視点から、どの様に神々が神として権威づけられ、その結果、世界がどうなったのかを想像しているのではありません。

 

人間ではその全てを推し量ることのできない絶対的な存在である「神が」、この世界の存在する前すでに存在し、この世界をはじめられたということです。

 

この聖書の表現から、人類としてあるべき態度を学ぶことが出来ます。
              
 

            

我々人類は、宗教の世界、或いは神話の世界においてこの被造世界の「始まり」について様々な説明をしてきました。

 

怪物の死体を二つに割いて世界を形作ったとしてみたり、卵みたいな ものからこの世界が生まれたとしてみたり、或いは、日本神話の様にこの世界の前身となる世界の様なものがあり、その世界から神々が遣わされ、この地が形造られたとしてみたりと、この世界の始まりについて様々な解釈をしてきました。

 

そのどれもこの世界を観察した結果、人が想像した世界です。

 

ある目の前の現象について考えをめぐらし、その原因をたどり想像する、因果律的な考え方において提案された世界観と言えます。

 

しかし、そのどれもが現代においては全く受け入れられていません。

 

何故なら、荒唐無稽で、非論理的な世界観として見られているからです。

 

基本的には、現代に生きる人の誰も、古代の神話など本気で信じている人はいません。

 

かといって、現代人が古代人と違って‘‘現実的‘‘なのかと言ったら、必ずしもそうではないでしょう。

 

現代には現代の神話があります。

 

古代でいう神話にあたるものを現代人はその代わりに確かに信じているのです。
 
             

その代わりに、現代では「科学」というものがその代用となっています。

 

しばしば、古代人は迷信深いと現代人に揶揄されますが、そんなことは無いんです。

 

実は、我々が常識としている科学というものも、 その本質は変わりません。

 

もちろん、科学によって我々は 物質的な面において飛躍的に進歩しました。

 

しかし科学の、目の前の現象について検証し、計算し、その原因をたどっていくという因果律的な考え方は、古代人と全く同じ発想であり、本質において同じなのです。

 

現代は、時代が進歩していく中で蓄積した、考える為の材料が増えているので、目の前にある現象をある程度よく説明できていてるだけなのです。

 

それは、一見現実的で、古代人の考えとは違って見えますが、その本質は全く変わりません。

 

「科学」というある種の神話が優れているのではなく、人類歴史の蓄積の恩恵を、我々現代人は受けていると言ったほうが 厳密だとは思いませんか。

 

 

「科学的根拠」というと我々はそれだけで安心するという魔法の中で日々を過ごして いますが、有名な科学雑誌に載っているような論文でも、およそ10年後にはその8割9割は覆されていると聞きます。 

 

 その点においても、かつて古代人が信じていた、現代においてほとんど支持されなくなった 宗教や神話と全く変わりません。

 

ですから、聖書の言う「はじめに」という言葉は、現代人にも、古代に生きた人々と同じ様に、訴えかけるものがあると言えます。
            

              

聖書の、この世界の始まりについての洞察は、そのような人間的な世界観とは、ある意味一線を画しています。

 

「はじめに」という一言は、人間の立場から見た「はじめに」であり、人類としてあるべき態度が教えられていると言いました。

 

というのも聖書は、この世界はどの様な自然現象によって始まったかについては、端的にいえば「わからない」と先ず宣言しているからです。

 

あくまでも地上に生きる、この天と地と共に造られた存在としての視点で、この世界の始まりを語ることによって、この世界の成り立ちのすべてについて、人間はその知識をすべては極めることはできないと敗北宣言をし、白旗を挙げているということです。

 

何に白旗を挙げているのかといえば、神にです。

 

神に白旗を挙げるというのは、この世界は、この世界が始まる前にすでに存在した、どんな概念に束縛されない絶対的存在が、その意のままに造られたものであることを認めることです。

 

聖書は、神を前にして、この世界に存在する一被造物である人類が、その知識について極めることができないということを先ず認めています。

 

いくら人類が進歩したからといっても、この世界の始まりについて、観測しようとするならば、「無」から何故「有」が生じたのか、という点で 躓くことになるでしょう。

 

論理的に考えて、人類にはその全てを解明することはできません。

 

人間がこの世界の始まりについて、知ることができると考えることこそ、神話の世界の話であり、論理的に無理な飛躍をしていると思います。

 

だからこそ、 聖書では、あくまでも人は神に造られたとされており、神に造られたものの目線から「はじめに」と書かれているのです。

 

古代に書かれた聖書だと言っても、現代においても何の変わりはありません。

 

この聖書の世界観は非論理的でしょうか。

 

私は、この世の実存的真理のすべてを解明できると考えるほうが非論理的であり、飛躍していると考えます。

 

非論理的でないからこそ、他の宗教や神話とは違い、今も支持され続けているのです。

 

因みに、この聖書の世界観は、日本人にはなじみのないものでありますが、 世界人口の半分は支持している世界観です。

 

 「はじめに」というこの言葉は、この世界がどの様な現象によって成り立ったのかという事に第一に目を向けさせるのではなく、人類はこの世のすべてを理解することはできないということを、理解させる言葉として述べられています。

 

また、これを認めることが、神に造られた人類のとるべき謙遜的な態度であると、聖書は教えているのです。

 

同時に、神はこの世界が始まる前から存在していたと説明することによって、神はわれわれ人類には説明できない、推し量ることのできない存在であると説明しています。

 

そのような存在であるからこそ、すべてを委ねて信頼することができるのです。

  

5.「まとめ」  

「創造された」という言葉は、神以外のすべては被造物であることを表している

「天と地を」という言葉は、神はこの世界のすべてを造ったことを表している

「神が」という言葉は、神は唯一であり、自立自存の絶対者であることを表している

「はじめに」という言葉は、神はこの世界が始まる前から存在したことを表している

 

「ご紹介」

1.サムネイルの絵

創造論曼荼羅

サムネイルの絵のタイトルは、創造論曼荼羅(そうぞうろんまんだら)です。

 

曼荼羅(まんだら)とは、主に西アジアの宗教に用いられている、教理体系を模式的に示した円図形のことをいいますが、この図には聖書の教理に基づく原初の世界の様子が、見える化されています。

 

旧約聖書、創世記1章~2章に示されている、人類堕落前の理想的な世界を表現しました。

 

聖書を読む際の助けとなれば幸いです。

 

2.聖書をお求めの方へ

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聖書の名言 「初めにことばがあった。」(ヨハネの福音書1章1節)

こんにちは、来栖川クリスです。

今回は聖書の名言である「初めにことばがあった」の内容をキリスト教伝道者が分かりやすく解説していきます。


本記事は、聖書のことばにすこしだけ触れてみたいと思っておられる方必見です。


聖書の言う「神」とは一体何なのかを、簡単に知ることができる内容となっておりますので、是非ご利用ください。

 

 

「目次」

  1. 「初めに」
  2. 「ことばがあった」

 

「ご紹介」

  1.  サムネイルの絵
  2.  聖書をお求めの方へ

 

 

「初めにことばがあった」

これはキリスト教信仰の土台を成す重要な言葉であり、「キリストは一体何者なのか」という点に光を当てる教えです。

 

聖書は、この世界は神が造られたという世界観を提示していますが、今回取り扱う言葉は、被造世界が始まる前のことを表現しています。

 

ですから、聖書の言葉を時系列順に並べるならば、今回紹介する「初めにことばがあった」という文が一番先になります。

 

旧約聖書、創世記には神の天地創造が描かれていますが、天地が具体的にどの様な力によって創造されたのかまでは示されませんでした。旧約聖書が書かれた時代にはまだ明かされていなかったからです。

 

しかし、キリストの到来、即ち「福音」によって新たな情報が示されました。

 

ではいったいどのような情報なのか、一言一句に注目してましょう。

 

1.「初めに」

「初めにことばがあった」

先ず「初めに」という言葉に目を留めたいと思います。

 

「初めに」と言ったとき、自動的にそれ以前には何もないことを意味します。正にその通りで、 聖書は何を置いても、先ず「ことば」があったと主張しているのです。

 

「ことば」と見てわかる通り、「言葉」と訳されず、あえてひらがなで訳されているのは、多種多様な、 一言で訳出不可能な哲学的意味が多く含まれているという事情があります。

 

新約聖書ギリシャ語で書かれていますが、原語では複雑な意味を持っているということですね。

 

「ことば」の説明は次のポイントで解説するとして、とにかく先ず覚えていただきたいのは、「ことば」と言うのは「神」を説明する為の単語であるということです。

 

ここでは、何故 「神」が「初めに」おられたと言われているのかに注目してみましょう。

 

この世界の「初めに」何があったのか、人は様々な想像をします。

 

虚無であったとニヒルな空想をしてみたり、宇宙の前身となる高密度のエネルギーが存在していたと仮説を立ててみたり、或いは宗教や神話が教えるように、神的な存在があった考えてみたりします。

 

聖書も、何よりも先に神がおられたという点においては、他の宗教や神話と同じですが、明確に違うのは「神以外の概念の一切の存在を許していない」という点です。

 

神は神であるがゆえに、何にも依存しないという聖書の神に対する見解が、「初めに」という言葉には表わされているのです。

 

要は、神は他と比べることができない「絶対的な存在である」と表現しているのです。

 

因みに、ちょっと勘違いしたような社長が自己啓発本で書いているような、「先ず口約束があった」という意味は全くありません。

 

「初めに」という言葉に込められた意味は、現代人の生き方に挑戦します。「初めに虚無があった」とするならば、人生も無意味で虚無に満ちたものになるでしょう。

 

「初めに宇宙の前身となる高密度のエネルギーが存在していた」と 科学的に考えるのならば、意味のある人生を生きられないどころか、決して答えの出ない問いに悩まされ続けるでしょう。

 

宇宙の始まりを、今ある事象から原因を無限に遡り、因果律的な考えかたで検証していく「科学」という人間の浅知恵では、論理的に考えて世界の始まりを説明することは不可能です。

 

何か宗教的な考え方に染まっていないものを、特に日本人は自動的に現実的であると考えるようですが、全く本質が見えていないのではないかと私は考えます。

 

人は始まりを「どう考えるのか」という域を 決して超えることはできず、「どう信じるべきか」という限界の中で生きるしかないからです。

 

「初めに」という聖書の言葉を真正面から受け止めると、そのような人間の限界が浮き彫りになります。

 

時に聖書は人に絶望を示すのです。しかし、同時に「ことばがあった」という希望に導いています。

 

つまり、人間の知の限界を見た時に、絶対的存在である「神」を見出すことができるのだと、先ず導いているということです。

 

2.「ことばがあった」

「初めにことばがあった」

次に「ことばがあった」という言葉に目を留めたいと思います。

 

「ことば」とでてきますが、これには様々な意味が含まれています。

 

「ことば」と訳されている語は、原語のギリシャ語ではλόγος(ロゴス)」と言いますが 、複雑な意味が込められているので、日本語では厳密な訳出は不可能な単語です。

 

聖書の筆者は、神という存在を説明しようと、あえて複雑な意味がある言葉を選んでいます。

    
神は人間の理知的限界を超えた存在であることは、前の「初めに」という言葉で示されましたが、そのうえで「ことばがあった」と、更に神についての新たな情報を落としています。

 

神というつかみどころがない絶対的存在に、不完全な人間が向き合えるように、手がかりとなるヒントを与えるためです。

 

ところで、よく宗教信者が言われるのは「神がいるのであれば見せてみろ」です。

 

この類の質問のする人の背後には「自分が認識できる範囲でのみ、この世のすべてが存在している」という思い込みが隠されています。

 

人間の限界が、この世界の正解だと信じる現代人の一般的な信仰心と言えましょう。

 

しかし聖書は、ハッキリとその考え方は間違っていると断罪します。

 

λόγος(ロゴス)」という言葉には様々な意味があると述べましたが、ここでの一番の強調点は、「神は目に見えない存在である」ということでしょう。

 

λόγος(ロゴス)」は大前提として「目に見えない概念」を指し示すものです。

 

「目に見えない概念」を指す言葉が「神」という絶対的存在を説明する為に用いられているということですね。

 

神は絶対者であるがゆえに何にも依存する必要が無いので、我々の様に、情報を得る為に見ることはおろか、聞く、嗅ぐ、味わう必要もありません。

 

従って体を持たないので、人間の様に、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりすることをしないのです。

 

つまり「神がいるのであれば見せてみろ」という問いに、聖書は「λόγος(ロゴス)」という言葉をもって、「神は目で見ることができない性質をもっている」と答えているのです。

 

しかし同時に、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりできる形で自身を表すことができる存在でもあります。

 

必要とあれば、神は自身を人に啓示することもできるのです。

 

そして実際、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりできる人の形で表されたのが「イエスキリスト」です。

 

神は、人類を罪と死から救うために、神のかたちとして、キリストを人間の目で見える形でこの世に表しました。

 

それは自らが創造した人間を救うため、実際に人として死に、人類の罪による呪いを引き受ける必要があったからです。

 

人でなければ死ねません、しかし神でなければ救えません。

 

「初めにことばがあった」

聖書の時系列で一番最初に位置づけられているこの名言は、先ず神の性質を説明し、イエスの救い主としての資格を示しているのです。

 

(まとめ)


「初めに」という言葉は、神は「絶対者である」ということを表している。


「ことば」という言葉は、神は「神は目に見えない存在である」ということを表している。


「初めにことばがあった」という言葉は、人を救いに導くために必要な、キリスト(救い主)に対する前提知識を我々に教えている。

 

「ご紹介」

1.サムネイルの絵

摂理的躓顚三脚巴

サムネイルの絵のタイトルは、摂理的躓顚三脚巴(せつりてきちてん さんきゃくどもえ)です。

 

本来は記事で取り扱うテーマに沿ったサムネイルを描くのですが、今回取り扱った「初めにことばがあった」という言葉を視覚的に表現するのは不可能だなと思いました。

 

よって本記事に限っては、「ことばとなった」存在の計画が、どの様に進んでいくのかという副次的なテーマを描くことにしました。

 

聖書曰く、神は、堕落し罪に躓いてしまった全人類の救済計画を進める為に、選民イスラエルを見出し、彼らの子孫の中から救い主であるイエスキリストを遣わしたと言います。

 

救い主の到来は、預言者によって予め知らされ、旧約聖書によって詳細に示されていましたが、なんとイスラエルの民はキリストを拒否しました。

 

神に選ばれた民が、神の救いを拒否するとは何とも皮肉ですね。

 

しかし、彼らの躓きによって、神は救いから遠かった異邦人、即ち非イスラエル民族に救いが及びました。

 

その結果誕生したのが、救われた信徒の群れである、所謂「教会」であります。

 

つまり、選びの民が救いを拒否することなど、最初から織り込み済みの計画だったということです。

 

では、イスラエル民族が神に見捨てられたのかといえば、そうではありません。

 

神は、今度は教会を通して、彼らに救いを及ぼすために取り計らっているのです。

 

そして、イスラエルの救いをもって、人類救済計画を成就させ、歴史を完結させようとしておられます。

 

人類の躓きは、選びの民に委ねられ、選びの民の躓きは 選ばれなかった者たちの救いに委ねられました。

 

選ばれなかった者たちの救いの結果、選びの民の救いが完成し、それを通して人類の歴史が完成するということです。

 

結局のところ、選ばれているか選ばれていないかなど人間側の視点なのであって、全ては神の前に平等であり、全ては神の計画の内であると聖書は教えます。

 

その様な、人の躓きによって進展し、神の愛の内に転がっていく不思議な摂理が、この絵には表現れています。

 

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『完全網羅』キリスト教伝道者が新約聖書すべての書をなるべく簡単に解説します。

こんにちは、来栖川クリスです。

今回は新約聖書の内容をキリスト教伝道者がしっかりと解説していきます。

本記事は新約聖書に収録されている書を、一つ一つ取り上げて簡単に紹介するものです。

どのような書が収録され、どのようなことが書かれているのかを簡単に概観できる内容となっております。

 

新約聖書には様々な書が集録されており、得られる情報は多種多様です。

この記事では膨大な情報の中から自分のニーズに合わせて読めるように、新約27巻すべての書の簡単な概要と難易度を、集録順に列挙いたしました。是非ご利用ください。

 

難易度は私の体感を★の数で表しています。最大★10個で、★1つ分で漫画、★★2つ分で小説ぐらいのイメージです。

 

 

「目次」

41.マタイによる福音書 

42.マルコによる福音書 

43.ルカによる福音書 

44.ヨハネによる福音書 

45.ローマの信徒への手紙 

46.コリントの信徒への手紙一 
47.コリントの信徒への手紙二 

48.ガラテヤの信徒への手紙

49.エフェソの信徒への手紙 

50.フィリピの信徒への手紙 

51.コロサイの信徒への手紙 

52.テサロニケの信徒への手紙一 

53.テサロニケの信徒への手紙二 

54.テモテへの手紙一 

55.テモテへの手紙二 

56.テトスへの手紙 

57.フィレモンへの手紙 

58.ヘブライ人への手紙 

59.ヤコブの手紙 

60.ペトロの手紙一 

61.ペトロの手紙二 

62.ヨハネの手紙一 

63.ヨハネの手紙二 

64.ヨハネの手紙三 

65.ユダの手紙 

66.ヨハネの黙示録 

 

「ご紹介」

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新約聖書

旧約聖書で結ばれた神と人との旧い契約と対比して、キリストが締結した新しい契約を「新約」と言います。神と人類との7つ目の契約であり、神の人類救済を成就させる聖書の中で最も重要な契約です。この新約を契機に示された神の啓示をまとめたものを、新約聖書と言います。

 

 

福音書

「福音」とは「良い知らせ」という意味で、英語では「gospel」と言います。神の人類救済計画を成就させる救い主、「イエスキリストの到来」を表す言葉です。そして「福音書」とは、イエスキリストの生涯を記録したものを差します。

 

計4つの福音書が書かれていますが、それぞれ筆者が異なります。基本的には同じイエスの言行録が記されているのですが、筆者はそれぞれ想定している読者に合わせて、異なる強調点でイエスが「救い主」であることを示しています。

 

エスが救い主であることを論証するにあたって、旧約聖書が背景となっているので、基本旧約聖書の予備知識が必要です。度々旧約聖書を開きながら読むのが良いでしょう。 旧約聖書の内容をある程度理解して福音書を読めば、創世記より記されてきた神と人との6つの救いの契約、預言等の様々な伏線に示されてきたものが、イエスキリストの事を指さしていたのだと知ることができると思います。

 

しかし初見殺しなのが、旧約聖書の知識以外に、当時のユダヤ教に関する知識が少々要求されるところです。イエスの教えの多くは、ユダヤ教の指導者である律法学者達への反論を通して展開されているので、当時のユダヤ教の知識が無ければ、どうしても分からないところがでてきます。ですからイエスの教えの意味を正確に知りたい人は、よく背景知識を学んでから読む努力が必要です。

 

全ての福音書は、人類の救いを示すキリストの「十字架」という一つのゴールに向かって構成されています。キリストの十字架をもって新しい契約は締結されたので、新約聖書を読むうえで福音書は必読書です。神の人類救済そのものが記されている書なので、聖書の中心と言えるでしょう。

 

福音書を読み飛ばしてしまうとそれ以降の背景が全く分からなるどころか、聖書を読む意味すら失ってしまいます。 聖書の中で最も重要な書なので、是非頑張って読んでみてください。

          
           
         

40.マタイの福音書

契約の民イスラエルの救い主、イエスキリストの言行録。

 

この書は契約の民イスラエル民族、即ちユダヤ人に向けて書かれており、前書きとして「イエス系図」が記されています。この系図はイエスがどの様な出自であるかを示すことによって、イエスユダヤ人達が待ち望んでいた王であるという事が強調されています。


この書は、イエスキリストが「預言の成就」であると論証することに強調点がありますので、旧約聖書からの引用が最も多い福音書です。4つの福音書の中で最も難易度が高く、ある程度旧約聖書の理解を要求する内容となっておりますので、最初に読む福音書としては、あまりお勧めできません。

 

難易度★★★★★(旧約聖書、特に預言書の理解、当時のユダヤ教に関する理解が要求されるのでこの難易度設定)

 

 

41.マルコの福音書

世界の救い主、イエスキリストの言行録。

 

この書には他の福音書のようにまどろっこしい前置きは無く、即イエスキリストの人生から記されています。特徴として、イエスキリストの教えよりも、行動が強調されており、人類を救う為に絶対に行われなければならなかった、キリストの十字架刑に焦点が当てられています。


キリストが救い主として、人類の救いの為にどの様な行動とったのかを手っ取り早く見ることができるので、福音書の中では割とわかりやすいと思います。
 
難易度★★★(旧約聖書、及び当時のユダヤ教に関する理解が少しだけあれば、ニュアンスはつかめるかなと思いこの難易度設定) 

 

 

42.ルカの福音書

キリスト教成立の歴史。

 

この書は当時の有力者に向けて、キリストの人生の記録が公文書として記されています。要は、お偉いさんに向けてキリストは何をして、どの様なことを触れ回ったのかを順序正しく、時系列順で歴史書のように記録しているという事です。

特徴としては、イエスキリストこそ理想的な人間であることが強調されていて、キリストの人間性に焦点が当てられています。全福音書の中で最も多くの情報が時間順に書かれているので、キリストの人生を詳細に網羅したい人にオススメです。

 

難易度★★★★(旧約聖書、及び当時のユダヤ教に関する理解が要求されるのでこの難易度設定)

 

 

43.ヨハネ福音書

信じる者の救い主、イエスキリストの言行録。

 

この書にはイエスキリストの生涯が詩的表現で描かれています。特徴として、キリストの教えと奇跡に焦点が当てられていて、イエスキリストが「神である」ことを論証することに強調点があります。

 

福音書の中では最後に書かれたものであり、他の3つの福音書が書き漏らしたことが
記されています。神学的要素が強く、信徒向けに書かれているので初心者には少しだけ難しいと思います。

 

難易度★★★★★(旧約聖書、及び当時のユダヤ教教理に関する理解が要求されるのでこの難易度設定)

 

 

44.使徒の働き

キリスト教発展の歴史。

 

キリストの死後、約30年後のキリストの使徒たちの言行録を通して、キリスト教の発展の歴史が詳細に記録されています。ルカの福音書の続編にあたる書であり、ローマ帝国に対してキリスト教が反権力的な宗教でない事を証明する為に書かれました。また、ローマの獄中にいた使徒パウロが無罪であることを証明する為に用いられた裁判資料でもあります。

 

難易度★★★★★(福音書の理解、紀元1世紀のローマの土地勘が要求されるので、やや高い難易度設定)

 

 

パウロ書簡

45~57はキリストの使徒パウロの教会へ書き送った手紙で、パウロ書簡と言います。使徒パウロは、キリストにつき従った所謂12使徒ではなく、キリストの死後特別に任命された使徒です。12使徒ユダヤ人に遣わされたのに対して、パウロは非ユダヤ人に対して福音を伝えるように遣わされました。

 

当時キリスト教が広まりつつあったイスラエル宗主国ローマ帝国内のそれぞれの地域にある教会へ向けた励ましと、具体的なアドバイスが記されています。全て使徒の働きが時代背景となっております。

 

キリストの教えに基づいて、様々な励ましやアドバイスが述べられているので、キリスト教の教えとは何かを分かりやすく、手っ取り早く理解したい人にオススメです。


キリスト教の教えは、基本的にユダヤ教ギリシャ哲学などのキリストの教えとは相反する考え方への反論を通して発展しているので、手紙のほとんどの内容が護教的なものとなっています。もちろん励ましや奨励の言葉などのポジティブな要素も大いにありますが、前提にあるのは異教に対する警戒感です。そのことを知っていると少しだけ読みやすくなると思います。
            
            

 

45.ローマ人への手紙

ローマにある教会に向けた助言。

 

ローマ帝国内の複数の教会に宛てられた手紙です。当時教会の大多数を占めていたユダヤ人と非ユダヤ人とのいさかい対しての助言がなされています。神に選ばれた契約の選民ユダヤ人の、非ユダヤ人に対して優越性を主張する態度に対して、ユダヤ人である使徒パウロが様々な角度から反論しています。

パウロ書簡の中で最も読まれ、最も多種多様なテーマが取り扱われているのも特徴の1つです。

 

キリストの教えに基づいて、「教会とは何か」が教えられ、「真の平和とは何か」という普遍的なテーマに発展していく構造となっております。      
                   
難易度★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリスト教を取り巻く背景知識、ローマにある教会の問題に対する理解を要求されるので、この難易度設定)

 

 

46.コリント人への手紙第一

コリント教会の信徒に向けた罪の叱責。

 

ローマ帝国にある町コリントにある特定の教会に向けて書かれた手紙です。コリントという町はローマ帝国内において、堕落を象徴する町として知られていました。東京でいうところの新宿や五反田と言ったところでしょうか。欲望渦巻く町の、 様々な問題を抱えていた教会に対して、使徒パウロが教会内の問題を1つ1つ取り上げて罪を叱責しています。

 

キリストの教えに基づいて、「信徒が罪に対してどのように対処するべきか」が教えられている書です。  

                    

難易度★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリスト教を取り巻く背景知識、コリントにある教会の問題に対する理解を要求されるので、この難易度設定)

 

 

47.コリント人への手紙第二

コリント教会に向けた追加の助言。

 

第一の手紙の内容を受けて一定の改善があったことに対する賛辞が呈されているのと、未だ改善されていない罪に対しての叱責が記されています。またパウロを疑う者も多くいたので、自身の擁護も、叱責と同時に書かれているのが特徴です。

 

難易度★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリスト教を取り巻く背景知識、コリント人への手紙第一の理解を要求されるので、この難易度設定)

 

 

48.ガラテヤ人への手紙

ガラテヤにある教会に向けた助言。

 

ローマ帝国のガラテヤ地方、現トルコ地方にある教会に宛てられた手紙です。当時の教会にあった様々な普遍的問題を取り扱われていますが、中心的なテーマは「救いの方法」です。

 

キリストの教えに基づいて、「人はどのようにして救いを得ることができるのか」が教えられています。 

 

難易度★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリスト教を取り巻く背景知識、ガラテヤにある教会の問題に対する理解を要求されるので、この難易度設定)

 

 

49.エペソ人への手紙

エペソにある教会に向けた助言。

 

ローマ帝国の大都市エペソにある教会に宛てられた手紙です。複数の教会に宛てられているため、様々なテーマが取り扱われていますが、中心的なテーマは「教会とは何か」ということです。

 

キリストの教えに基づいて、人と人が真に調和する為にはどのような自己認識を持つべきかが教えられています。

 

難易度★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリスト教を取り巻く背景知識、エペソにある教会の問題に対する理解を要求されるので、この難易度設定)
 

 

50.ピリピ人への手紙

ピリピにある教会に向けた助言。

 

ローマ帝国の植民都市ピリピにある教会に宛てられた手紙です。この手紙には護教的な要素はほとんどなく、「神を信じる者の特権」が確認されています。

 

キリストの教えに基づいて、神を信じる生き方における喜びが教えられている書です。
                  
難易度★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリスト教を取り巻く背景知識を要求されるので、この難易度設定)

 

 

51.コロサイ人への手紙

コロサイにある教会に向けた助言。

 

ローマ帝国の都市コロサイにある特定の教会に宛てられた手紙です。当時ローマ世界に流行っていた哲学「グノーシス主義」に対して警鐘を鳴らす目的で書かれた手紙です。

グノーシス主義とは物質を悪捉えて現実を否定し、目に見えない精神世界こそ善であるとして物事を発想し、精神世界の知恵を極めることによって救いを求めていく哲学思想で、ギリシャ哲学が根付いた地域において、ローマの圧政の中から生まれた考え方であると言われています。

 

ローマ世界にキリスト教が広がっていくにあたり、グノーシス主義に基づいて キリストという実在人物を精神概念化して教えを解釈するものが後を絶ちませんでした。故にこの手紙は護教的な要素が強いので、キリスト教教理の確認がメインテーマです。

 

キリストの教えに基づいて、 所謂「クリスチャンが何を信じているのか」が確認されています。
                  

 

難易度★★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリスト教を取り巻く背景知識、コロサイにある教会の問題に対する理解を要求されるので、この難易度設定)

 

 

52.テサロニケ人への手紙第一

テサロニケにある教会に向けた助言。

 

ローマ帝国自由都市テサロニケにある教会に宛てられた手紙です。この町にはユダヤ人が多く住んでいたので、信徒はユダヤ教による迫害の影響を強く受けていました。パウロ自身もこの地を訪れた際にユダヤ人達の激しい迫害を受けてすぐに立ち去らねばならないほどでした。


日々迫害に晒されているこの地の教会の人々に対して、パウロは言い残したこととして、「神を信じる者に与えられた希望」を確認し、励ましています。

 

キリストの教えに基づいて、「神を信じる者の死生観」が教えられている書です。


                      
難易度★★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリスト教を取り巻く背景の理解、キリスト教教理における終末論に関する理解を要求されるので、この難易度設定)

 

 

53.テサロニケ人への手紙第二

テサロニケ人への手紙第一の補足。

 

迫害がさらに激しくなるテサロニケ教会に対して、更なる励ましと、第一の手紙で教えられた内容の補足が記されています。第一で記されたパウロの教えを誤解して解釈するものがいたためにこの手紙は書かれました。

 

難易度★★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリスト教を取り巻く背景知識、キリスト教教理における終末論に関する理解、テサロニケ人への手紙第一の理解を要求されるので、この難易度設定)

 

 

 

牧会書簡

54~56までは使徒パウロが教会の牧師個人に向けて書き送った手紙で、牧会書簡と言います。牧師個人に対する激励の言葉と、教会内の種々の問題に対して具体的なアドバイスが記されています。

主に牧師や伝道者などが読むべき内容となっております。


    

54.テモテへの手紙第一

牧会者テモテへの助言。

 

大都市エペソにある教会を任されることになったテモテという人物に対して、使徒パウロの励ましと助言が記されています。

当時流行っていた哲学に対してどう反論するか、教会の指導者としての資格とは何か、プライベートの生活に対しての注意など 教会内における様々なテーマが扱われています。

キリストの教えに基づいて、「聖書的リーダーシップとは何か」が教えられている書です。

 

 難易度★★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリストの教を取り巻く背景知識、エペソにある教会の問題に対する理解を要求されるので、この難易度設定)

 

 

55.テモテへの手紙第二

テモテへの離別の手紙。

 

当時ローマの獄中にいたパウロから、テモテに対して処刑直前に書かれた最後の手紙です。テモテに持てる知識全てを振り絞って、教会のリーダーとしての助言が記されています。自らに差し迫る死を悟りながら、第一の手紙に引き続き、教会内おける種々の具体的なアドバイスが記されています。

 

難易度★★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリストの教を取り巻く背景知識が要求されるので、この難易度設定) 
   

                

56.テトスへの手紙

牧会者テトスへの助言。

 

地中海に浮かぶ島、クレタ島にある教会を任されたテトスという人物に対して、使徒パウロの励ましと助言が記されています。クレタ島の住民に対して警告や、ユダヤ教に対してどのように対応するべきか等、教会内における種々の具体的なアドバイスが記されています。
                 

キリストの教えに基づいて、「教会のリーダーとしての最低限の資格とは何か」が教えられている書です。

                 

難易度★★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリストの教を取り巻く背景知識、クレタ島にある教会の問題に対する理解を要求されるので、この難易度設定) 

 

 

57.ピレモンへの手紙

逃亡奴隷オネシモに関するピレモンへの懇願。

 

コロサイ教会の有力者ピレモンの元を逃げてきた奴隷オネシモを、再び受け入れてもらうように懇願する内容です。

 

キリストの教えに基づいて、「権力や財の用い方」が教えられています。

 

難易度★★★(最低限ピレモンとオネシモとの関係性を理解していれば言わんとしていることは分かるのかなと思い、この難易度設定) 

 

 

 

メシアニックジュー書簡

58~61まで、飛んで65は、主に12使徒たちが、キリストを信じるユダヤ人達、即ち「メシアニックジュー」に書き送った手紙でメシアニックジュー書簡と言います。キリスト教に対する激しい迫害の受けて、ユダヤ教に立ち戻ろうとする者たちに励ましと勧告がなされています。


ユダヤ人達に書き送られているため、旧約聖書の知識がある程度要求される内容となっております。

 

58.へブル人への手紙

旧約よりも新約の方が勝っていることの論証。

 

旧約聖書の祭儀法や登場人物などを通して、福音及びキリストの優位性が論証されています。

 

旧約聖書的の背景知識を要求されるメシアニックジュー書簡の中で、最も知識が要求される書なので、聖書初心者には難しいでしょう。

 

キリストの教えに基づいて、「 旧約聖書の正しい理解」を学ぶことができます。

 

 難易度★★★★★★★(旧約聖書、特にレビ記に関する深い造詣、福音書の理解、紀元1世紀のユダヤ教キリスト教を取り巻く背景知識が要求されるので、高い難易度設定)

 

 

59.ヤコブの手紙

神を信じる者の行いを教えた手紙。

 

当時教会のリーダー的存在であったキリストの実弟ヤコブが、同胞のイスラエル12部族、即ちユダヤ人達に対して書き送った手紙です。信者の模範的行動を示すことにより、キリスト教を信じることは、ユダヤ教を信じることに勝ってることを論証しています。

 

ユダヤ教に立ち返ろうとしている 同胞に対して、ユダヤ教に回帰するのであれば、その612の戒律を余すところなく守って見せよ、いや、すべて守り行えて当然だよね?と皮肉交じりに教えているのが特徴的です。

 

キリストの教えに基づいて、「信仰者が行うべきこととは何か」を学ぶことができます。

                

難易度★★★★★★★(旧約聖書への深い造詣、福音書の理解、紀元1世紀のユダヤ教、キリストの教を取り巻く背景知識が要求されるので、高い難易度設定)

 

 

60.ペテロの手紙第一

キリストの12使徒ペテロによる励まし。

 

紀元64年10月から始まった、ローマ皇帝の暴君と知られるネロの、キリスト教大迫害の直後に、信徒を励ます為に書かれた手紙です。激しい迫害に晒される中で、キリストを信じるものに与えられた希望が確認されています。

 

キリストの教えに基づいて、「神を信じる者の人生観」を学ぶことができる書です。
                  
                 
難易度★★★★★★★(旧約聖書への深い造詣、福音書の理解、紀元1世紀のユダヤ教キリスト教を取り巻く背景知識が要求されるので、高い難易度設定)


                          

61.ペテロの手紙第二

キリストの12使徒ペテロによる警告。

 

第一の手紙から数年後に書かれた手紙で、キリスト教に反対する教えに対して、旧約聖書を例を挙げて信徒に警告がなされています。

 

使徒ペテロが処刑される4年以内に書かれたものであり、行間から迫害が差し迫ってきていることを感じ取れる大変臨場感のある書です。

 

難易度★★★★★★★(旧約聖書への深い造詣、福音書の理解、紀元1世紀のユダヤ教キリスト教を取り巻く背景知識が要求されるので、高い難易度設定)

 

 

62.ヨハネの手紙第一

グノーシス主義への反論を通したキリスト教教理の確認。

 

ローマ帝国アジア州にある複数の教会に対して、 キリストの12使徒ヨハネによるキリスト教に反対する哲学思想に対しての反論が記されています。

当時ローマ世界に流行っていた哲学「グノーシス主義」に対して反論する目的で書かれた手紙です。 グノーシス主義とは物質を悪捉えて現実を否定し、目に見えない精神世界こそ善であるとして物事を発想し、精神世界の知恵を極めることによって救いを求めていく哲学思想で、ギリシャ哲学が根付いた地域において、ローマの圧政の中から生まれた考え方であると言われています。

ローマ世界にキリスト教が広がっていくにあたり、グノーシス主義に基づいて キリストという実在人物を精神概念化して教えを解釈するものが後を絶ちませんでした。
                    
筆者である使徒ヨハネは対比厨なので、この手紙はキリストの教えが「光と闇」「愛と憎しみ」「真理と偽り」という3つの対比で詩的に表現されています。

 

キリスト教教理を流麗な詩によって学ぶことができる書です。                   
 難易度★★★★★★(旧約聖書の理解、福音書の理解、紀元1世紀のキリスト教を取り巻く背景知識が要求されるので、この難易度設定)

 

 

63.ヨハネの手紙第二

グノーシス主義への反論を通したキリスト教教理の確認。

 

第一の手紙同様にグノーシス主義に対して警告されています。キリストという存在を、精神的概念に変えようとするグノーシス主義の考え方に引いて行かれないように、キリストの教え、及び使徒たちの教えという真理に留まるように勧めています。
                  
 難易度★★★★★★(旧約聖書への深い造詣、福音書の理解、紀元1世紀のユダヤ教キリスト教を取り巻く背景知識が要求されるので、この難易度設定)

 

 

64.ヨハネの手紙第三

使徒ヨハネによる教会指導者ガイオへの助言。

 

アジア州にある教会の指導者ガイオに対して、使徒ヨハネが具体的なアドバイスをしている手紙です。

キリストの教えを私利私欲の為に利用していた、同じ教会の指導者ディオテレペスに対しての対応策が記されています。「クリスチャンの集団意識」を見て取ることができる手紙です。

 

 難易度★★★★(必要な背景知識は、ほぼこの書に書かれていることだけで事足りるし、ボリュームもほぼないですが、基本的には信徒向けの書なのでこの難易度設定)

 

 

65.ユダの手紙

神への不信仰に対する警告。

 

この手紙の著者は不明ですが、内容から察するに、旧約聖書に精通したユダヤ人が、迫害によって散らされたキリストを信じる同胞に向けて書いた手紙であることは間違いないでしょう。

 

旧約聖書に記されている様々な不信仰の例を通して、「偽の教理を教える者たちの末路が如何なるものなのか」を教えている書です。

 

               
難易度★★★★★(旧約聖書への深い造詣、福音書の理解、旧約偽典の知識、紀元1世紀のユダヤ教キリスト教を取り巻く背景知識が要求されますが、ボリュームが無いのでこの難易度設定)

 

 

 

黙示文学書

黙示文学書とは、特殊な文書形式をとり、宗教の秘儀や奥義などを書き記したものを指します。

 

聖書の中の黙示文学書では、筆者が感じた神からのメッセージが、様々な象徴的表現で記されています。

預言書は神からのメッセージを韻文の形式で書いていますが、黙示文学書は韻文ではなく、散文で書かれているのが特徴です。

 

解釈が多岐にわたり教会内においても論争が絶えない書であり、書かれている象徴表現を読み解くには、聖書への深い造詣と古文書を読み解く高いセンスが必要になります。

 

聖書では「ヨハネの黙示録」「エゼキエル書(37章~48章迄)」「ゼカリヤ書(1章7節~7章8節迄)」が黙示文学書に該当します。


            

66.ヨハネの黙示録

12使徒ヨハネが見たキリストの黙示。

 

新約聖書で神から示されてきた預言的メッセージが時系列順に並べられ、改めて記録されています。

 

今まで聖書を通して学んできたことすべての答え合わせとなる書と言えるでしょう。

書かれている象徴的表現のほとんどが旧約聖書、特に預言書からの引用であり、旧約聖書に記されているすべての啓示を理解している前提で記されているのが特徴です。

 

神の人類救済計画の未来が展望されていて、「イスラエル、及び全世界に下る裁き(6~18章)」、「キリストの再臨(19章)」、「罪と死の決着(20書前半)」、「人類歴史の完成(20章前半)」、「人類への裁きの成就(20章後半)」「永遠の成就(21~22章)」等旧約聖書が示してきた伏線がすべて回収される書です。

 

ヨハネの黙示録には神と人類との約束である8つの契約の内、8つの契約「御国の契約」の成就(20章4節)が記されており、救い主イエスキリストと神を信じる者たちによる理想的な世界の到来が示されています。

 

難易度★★★★★★★★★★(聖書全体、特に預言書への深い造詣が要求される点、黙示文学という文書の性質などを考慮して、最高難易度設定)

 

 

以上です。読むときの参考にしていただきたいと願います。

 

 

 

「ご紹介」

1.サムネイルの絵

新約曼荼羅

サムネイルの絵のタイトルは、新約曼荼羅しんやくまんだら)です。

 

曼荼羅(まんだら)とは、チベット密教等の教理体系を模式的に示した円図形のことをいいますが、この図には新約聖書の教理が見える化されています。

 

新約聖書は、歴史書として位置付けるのであれば人類歴史がどの様に終わりに向かっていくのかを記している書と言えるでしょう。

 

史書として読めば、旧約聖書に記されてきた、人類に与えられた「祝福」のゆくえ、人類の「罪」のゆくえ、人類の罪故に生じてしまった「呪い」のゆくえ、などの様々な要素の伏線を、十字架を機にキリストが回収して行く様を見て取ることができます。

 

この絵を注意深く見ていただければ、その様なキリスト教教理の終末論、即ち聖書の示す人類歴史がどの様な決着を見るのか理解できるようになっています。

 

新約聖書を読む際の助けとなれば幸いです。

 

 

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『完全網羅』キリスト教伝道者が旧約聖書すべての書をなるべく簡単に解説します。

こんにちは、来栖川クリスです。

本記事は旧約聖書に収録されている書を、一つ一つ取り上げて簡単に解説するものです。

どのような書が収録され、どのようなことが書かれているのかを簡単に概観できる内容となっております。

特に旧約聖書をどこから読んだらいいかわからない人必見の内容となっておりますので、是非ご利用ください。

 

旧約聖書には様々な書が集録されており、得られる情報は多種多様です。

 

この記事では膨大な情報の中から自分のニーズに合わせて読めるように、旧約39巻すべての書の簡単な概要と難易度を、集録順に列挙いたしました。

 

難易度は私の体感を★の数で表しています。最大★10個で、★1つ分で漫画、★★2つ分で小説ぐらいのイメージです。

 

 

「目次」

  1. 創世記
  2. 出エジプト記
  3. レヴィ記
  4. 民数記
  5. 申命記
  6. ヨシュア記
  7. 士師記
  8. ルツ記
  9. サムエル記第一
  10. サムエル記第二
  11. 列王記第一
  12. 列王記第二
  13. 歴代誌第一
  14. 歴代誌第二
  15. エズラ記
  16. ネヘミヤ記
  17. エステル記
  18. ヨブ記
  19. 詩篇
  20. 箴言
  21. 伝道者の書
  22. 雅歌
  23. イザヤ書
  24. エレミヤ書
  25. 哀歌
  26. エゼキエル書
  27. ダニエル書
  28. ホセア書
  29. ヨエル書
  30. アモス書
  31. オバデヤ書
  32. ヨナ書
  33. ミカ書
  34. ナホム書
  35. ハバクク書
  36. ゼファニア書
  37. ハガイ書
  38. ゼカリア書
  39. マラキ書                                 

「ご紹介」

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モーセ五書

1~5までは元々一連の書であり、総称してモーセ五書と言います。

 

紀元前1400年代、イスラエル民族が国家として歩む前に、民族のアイデンティティの確認の為、イスラエル民族の指導者モーセによってまとめられました。

 

人類一般の歴史とイスラエル民族の歴史とが記録されています。人は神と言われる存在とどの様な契約を交わし歩んできたのか、また人類歴史の歩みの中で、神と民族として契約を交わしたイスラエル民族が、どの様な歴史を刻んできたのかを振り返ることができます。

 

            

1.創世記

人類の始まりの歴史と契約の民イスラエル民族の始まりが記録されている書。

旧約聖書の中で最も重要な書であり、聖書全体を理解するうえで、大前提となる世界観です。

 

聖書を読むうえで軸足となる、あらゆるものの‘‘始まり‘‘が記されています。

「地」の始まり、「生き物」の始まり、「人類」の始まり、「命」の始まり、「祝福」の始まり、「契約」の始まり、「法」の始まり、「罪」の始まり、「死」の始まり、「裁き」の始まり、「救い」の始まり、「歴史」の始まり、 「文明」の始まり等、人類という種としてのアイデンティティーを持つ者として、知らなければならない最低限の情報が記されているのが特徴です。

 

1章~11章までは人類一般の歴史が取り扱われています。人類の堕落以降、神を信じる者と信じない者の道が、分岐したことを様々な歴史物語や家系図によって示され、其々の生き方を対比しています。

 

12~50章までは神と契約を交わした民族、イスラエル民族の創世の歴史が記されています。

 

彼らは、堕落した人類救済の為に神によって選び出された民族であり、やがて救いの土壌を担うことになります。アブラハムという一人の人物の選びから始まり、その家族が一大民族‘‘イスラエル‘‘として歩みだすまでのドタバタ家族劇は一見の価値ありです。

 

人類の代表としてイスラエル民族に委ねられた‘‘約束の地‘‘、カナンを巡る物語がここから始まります。
            
創世記には、神と人類との約束である、人類を救いに導くための8つの契約の内「エデン契約(1章-28節~30節、2章-15節~17節)」「アダム契約(3章14節~19節)」「ノア契約(9章1~17節)」「アブラハム契約(12章~17章)」の計4つの契約が記されています。

 

創世記を理解できれば、聖書の半分を理解できたと言っても過言ではありません。聖書を読む際は先ず一番最初読んでみてください。

 

因みに、有名な「アダムとエヴァ失楽園」「ノアの箱舟のお話」はこの書に集録されています。

 

難易度★★★★★(5)(古代中近東の背景知識が要求されるため、また、かなりボリュームがあるためこの難易度設定)

 

 

2.出エジプト記

エジプトの奴隷となっていたイスラエル民族の指導者モーセを中心とした脱出物語。

 

一家族から、民族として歩みを始めたイスラエル民族でしたが、飢饉から逃れるため、当時の覇権国であったエジプトに寄留することになりました。

 

しかし、寄留の地でますます増え広がるイスラエルの民に恐れをなしたエジプトの王ファラオは、彼らを奴隷として虐げるようになります。

 

そんな寄留民あったイスラエル民族が、何故、当時世界最強国家であるエジプトに立ち向うことができたのかが記されています。

 

この書はイスラエル民族が如何にして神に導かれ、救われたかを思い出す為に記された彼等の歴史そのものであり、今でもイスラエルの人々にとってアイデンティティーとなっています。

 

出エジプト記には、神と人類との約束である、人類を救いに導くための8つの契約の内、5つ目の契約「モーセ契約(19章~24章)」が記されています。この契約から神の人類救済計画は、人類の代表として選びだされたイスラエル民族という一つの弱小民族に、本格的に委ねられることになります。

 

有名な「モーセの海割り」「モーセ十戒」はこの書に集録されています。

 

難易度★★★★★★(6)(古代中近東の背景知識、創世記の知識、及びイスラエル民族と神との契約関係への理解が要求されるため、この難易度設定)

 

 

3.レヴィ記

イスラエル民族が砂漠を彷徨っていたころの宗教的な祭儀法が記されている専門書。

そもそもこの書はイスラエル民族の内、祭司及びその手伝いを務める人に向けて書かれているので、内容は極めて専門的です。


現代の、しかもイスラエル民族の祭司でない人が読んでも、基本的には何が書いてあるかわからないでしょう。信徒は一連の祭儀法から教訓を導き出すことは可能ですが、信徒でない人間が読んでも意味不明。

 

難易度★★★★★★★★★★★★★★★★(16)(牧師や伝道者、或いは神学者でもわからない記述が多数あるのでこの難易度設定)

 

 

 

4.民数記

エジプトからの脱出の後、砂漠を彷徨ったイスラエル民族の40年に及ぶ旅路の記録。

イスラエル民族が如何にして作物も水もない荒れた土地を生き抜いたかが記されています。

 

しかし別にサバイバルの極意が書かれているわけではなく、如何にして神が約束に基づいて自分の選んだ民を守り導いたかが記されている書です。

神が委ねると約束した、‘‘約束の地‘‘を目前に、その地に巣食っている敵に恐れをなし、逃亡したイスラエル民族の放浪の旅が描かれています。

 

難易度★★★★★★(6)(古代中近東の背景知識、創世記、出エジプト記の知識、及びイスラエル民族と神との契約関係への理解が要求されるため、この難易度設定) 

 

 

5.申命記

イスラエル民族と神との歴史の回顧録

内容の一部は出エジプト記、レヴィ記、民数記と重複します。 王制政治がもてはやされていた当時、神こそがイスラエルの王であるということをオフィシャルに表明する目的で書かれました。故に、当時の王と民との契約書の様式で書かれています。

 

40年の放浪の後、約束の地を再び目の前にしたイスラエル民族が、いよいよ国家としての歩みを始めるというとき、その準備として記された書です。

 

砂漠での失敗と神の介入による民族の成長と回復の歴史とを振り返り、これからの未来が展望されています。

 

難易度★★★★★★(6)(古代中近東の背景知識、創世記、出エジプト記民数記の知識、及びイスラエル民族と神との契約関係への理解が要求されるため、この難易度設定)

 

 

6.ヨシュア

イスラエル民族の国家の基礎が如何にして設立されたかの記録。

エジプトからの脱出と砂漠での放浪を、神の命令に基づいて指導したモーセから、次世代の指導者ヨシュアへとバトンが継がれます。

 

神がイスラエルに与えると約束した土地、「カナンの地」を巡る戦争が記され、如何にして勝利したかを記録しています。モーセの時代には叶わなかった神との約束が、具体的にどのように前進したのかが描かれている書です。 

 

難易度★★★★★★(6)(古代中近東の背景知識、モーセ五書の知識、及びイスラエル民族と神との契約関係への理解が要求されるため、この難易度設定)

 

 

7.士師記

イスラエル民族の国家が如何にして開拓されたのかの記録。

ヨシュアの指導の元、神との約束の地に入植したイスラエルの民でしたが、神の命令通りに従わなかったので開拓が長らく停滞していました。


イスラエルの民は、神と約束したような国がなかなか成就せず、失望を覚えますが、めいめいが正しいと思う指導者「士師」を、各コミュニティーで立てて何とか民族を保ちます。

 

そんな只中で、どの様な神の介入があり、どの様な希望があったかが歴史を通して描かれています。 

 

難易度★★★★(4)モーセ五書ヨシュア記までの知識を有していれば、より深く理解できますが、様々な指導者の話がオムニバス形式で集録され、一人一人の物語が独立しているためこの難易度設定)

 

 

8.ルツ記

ルツという一人の女性のホームドラマ

ドラマと言っても、前書の士師記の時代に実際に起こったノンフィクションドラマであり、旧約聖書の中で数少ない、イスラエル人でないものが主役の書です。

 

物語は、イスラエル民族の間では鼻つまみ者の外国人女性であるルツが、イスラエル人男性の妻になり、ある日突然未亡人となるところから始まります。

姑のナオミと如何に苦難を乗り越えるかが見どころの、平日の昼間にやっているようなさわやかな昼ドラの様な物語です。

 

聖書に疲れた時の箸休めにいかがでしょうか。因みにルツは、あのダビデ王のひいおばあちゃんにあたる人物になります。

 

難易度★★★(3(当時のイスラエル民族の結婚に関する背景知識が少しだけ要求されるだけなのでこの難易度設定)

 

 

年代記

9~16までは、イスラエル民族の国家としての歩みを記した年代記です。

 

紀元前1000年代頃~紀元前500年代頃までのおよそ500年間をカバーしています。イスラエル民族の国家創成期~黎明期、黄金期~衰退期、そして滅亡までが、出来事や年代ごとに記録されています。


1~8までの時代を経て、神との契約によって、人類救済の土壌として与えられた‘‘約束の地‘‘での、イスラエル民族の国家としての歩みを振り返ることができます。

また彼らの歩みを通して、神がどれくらい自身の約束に忠実であったのかを見て取ることも可能です。

 

 

9.サムエル記第一

イスラエル王国樹立の経緯。

国家開拓時代以降、相変わらず神との約束に背き、停滞の歴史を刻んでいたイスラエル民族でしたが、サムエルという人物の登場によって急展開を迎えます。

 

当時イスラエルは、神が治める神権政治体制の国家でした。宗教性が国の政治の根幹にあり、祭司が全権を握っていましたが、彼は祭司として、また神意を伝える預言者としてイスラエル民族を指導し、堕落していた民の精神性を回復させます。

 

その後サムエルが年老い、活発でなくなったことを機に、祭司を中心に再び民は堕落してしまいます。そんな祭司を不満に思った民は、指導者サムエルに、祭司を中心とした神権政治から、他国の様な王制政治への改革を要求しました。


サムエルは、システムに問題の原因を求める民を叱責し、神は反対しているという神意を預言しますが、頑なに神に従わない民は、それでも王を求め、神が国を治める神権政治であったのが、人間の王が国を治める王制政治へと移り変わります。

 

結果サムエルは、サウルという青年を王座に据え、消極的な形でイスラエル王国は樹立されることになりました。

 

しかしサウル王もまた堕落し、神に背き始めたので、晩年にサムエルは新たな王を立てる為に、青年ダビデに新たに王権を渡し、王国の立て直しを図ります。

民に振り回されるサムエルのてんやわんやの生涯と、イスラエル民族の王国国家への移行期の歴史が記録されている書です。

 

難易度★★★★★★(6)イスラエル民族と神との契約関係に対する理解、古代中近東の国際的勢力に関する知識が要求されるためこの難易度設定)

 

                                

10.サムエル記第二

イスラエル王国黎明期の記録。

サムエル記第一に引き続き‘‘サムエル‘‘という名が付けられていますが、主役は交代してダビデになります。

 

神権政治国家から、王権国家へと変わったは良いものの、再び神に背き落ちぶれたイスラエルの民でしたが、ダビデ王の活躍により徐々に回復します。

 

ダビデは政治的にも軍事的にも、また神の声を聞くことにも長けていたので、次々と敵国を征服し、神が与えると約束した土地を次々と獲得しました。

 

彼はその手腕を存分に発揮し、王国の首都をエルサレムと定めて宗教的祭儀を行う神殿の建立を計画し、それまでばらばらだった民に希望を示し、神へと向き直させます。

 

ダビデの国を平定した成功者としての姿が描かれる反面、失敗も明確に示されていて、彼が人として如何に立ち直ったかという人間模様も記されています。

 

サムエル記第二には、神と人類との約束である、人類を救いに導くための8つの契約の内、6つ目の契約「ダビデ契約(7章-12節~17節)」が記され、ダビデの子孫に、やがて永久に続く神の王国を治める者が出ることが示されています。

 

難易度★★★★★★(6)イスラエル民族と神との契約関係に対する理解、及びサムエル記第一の知識、古代中近東の国際的勢力に関する知識が要求されるためこの難易度設定)

 

                 

11.列王記第一

イスラエル王国の黄金期の歴史。

ダビデ王の晩年から始まり、王位継承権を巡る骨肉の争いが勃発します。

革命で国がぐらつく只中で、ダビデ王の子ソロモンが王として立てられ、イスラエルは遂に黄金期を迎えました。


ソロモンもダビデ王同様聡明であり、特にその知恵によって国を導いたエピソードが、イスラエルの黄金時代の歴史を通して記録されています。

 

特にダビデ王の時代から計画されている一大事業、神殿建設工事を成功に導く政治手腕は、この国の政治家にも見習ってもらいたいものです。

 

因みにソロモン諸島命名の由来は、島を発見した探検家が、現地で採掘される砂金が、探し求めていた古代イスラエル王国隆盛時代のソロモン王の宝であるとしたことで、周辺の島々を含めソロモン諸島と名づけられたそうです。

 

難易度★★★★★★★(7)イスラエル民族と神との契約関係に対する理解、サムエル記の知識、古代中近東の国際的勢力に関する知識が要求されるためこの難易度設定)

 

 

12.列王記第二

イスラエル王国衰退期の歴史。

ソロモン王の堕落から始まり、他国による宗教的干渉を受けたことを機にイスラエル南北に二分されます。

 

分断されたことにより国力は弱まり、やがて国は衰退、イスラエル王国は徐々に滅亡へと舵を切ることに...。

 

王国が分裂し、王の後継者を巡り内戦が勃発する中、他国からの侵略も受けるような混沌としたイスラエル王国に、神が様々な預言者を遣わして救おうとする様が描かれています。

 

またこの書は、後に集録されている預言書の時代背景にもなってきますので、預言書を読むうえでの重要な下地となる歴史書でもあります。

 

難易度★★★★★★★(7)イスラエル民族と神との契約関係に対する理解、サムエル記の知識、古代中近東の国際的勢力に関する知識が要求されるためこの難易度設定)

 

 

13.歴代誌第一

サムエル記の概観兼補足。

サムエル記は年代ごとにで歴史が記されていたのに対し、歴代誌は出来事で歴史が要約されています。

 

またサムエル記は政治的な視点から歴史を記していたのに対し、この書は宗教的な視点で歴史が記されているのが特徴です。

 

 難易度★★★★★★★(7)イスラエル民族と神との契約関係に対する理解、サムエル記の知識、古代中近東の国際的勢力に関する知識が要求されるためこの難易度設定)

 

 

14.歴代誌第二

列王記の概観兼補足。

列王記は年代ごとにで歴史が記されていたのに対し、歴代誌は出来事で歴史が要約されています。

 

また列王記は政治的な視点から歴史を記していたのに対し、この書は宗教的な視点で歴史が記されているのが特徴です。

 

難易度★★★★★★★(7)イスラエル民族と神との契約関係に対する理解、列王記の知識、古代中近東の国際的勢力に関する理解が要求されるためこの難易度設定)

 

 

15.エズラ

イスラエル復興期の歴史。

イスラエルの民は国を追われ、他国に囚人として捕らわれていましたが宗主国の国王の計らいにより国への帰還が徐々に許されます。

 

属国として再興していくイスラエルが、如何にして宗教性を回復し、その象徴たる神殿を建て直すのかを記した歴史書です。

 

因みにこの時代に、王国滅亡の原因となった宗教的干渉を、二度と他国から受けないように宗教が体系化され、ユダヤ教が成立しました。

 

難易度★★★★★(5)イスラエル民族と神との契約関係に対する理解、イスラエル王国崩壊の経緯に関する知識、古代中近東の国際的勢力に関する知識が要求されるためこの難易度設定)


      

16.ネヘミヤ記

イスラエル復興期の歴史。

エズラ記の時代の2、3世代後のイスラエル復興の歴史が記されています。ネヘミヤという指導者が、荒れ廃れた首都エルサレム城壁を外国人に嘲笑されたことを機に立ち上がる物語です。


「城壁の回復」がテーマがあり、あまり入り組んだ内容ではないので、歴史書としては比較的読みやすく、日曜の夜にやっている企業もののドラマの様な雰囲気があります。

 

難易度★★★★(4)(1つの物語として見るのであれば、さほど難しくはないのかなと思いこの難易度設定、イスラエル王国崩壊の経緯に関する知識及び、イスラエル民族と神との契約関係に関する背景知識があればより楽しめます。)

 

 

17.エステル記

エステルというイスラエル人女性のシンデレラストーリー。

イスラエルの民が捕囚民として囚われていた時代の物語であり、宗主国の王の妃がその座を追われ、新らしい妃としてエステルが見初められることから物語は始まります。


エステルが王宮に住まうことになった一方で、娘を心配して王宮に見舞うエステルの養父モルデカイは、そこで偶然‘‘王の暗殺計画‘‘を聞いてしまい、物語が大きく展開していきます。グリム童話の様な雰囲気があり、 ディ〇ニー映画でも見たかのような気分になるとかならないとか。

 

難易度★★★(3)(聖書の中で唯一宗教的な要素が前面には無い書なので、非常に読みやすいと思います。)

 

 


詩歌

18~22はすべて韻文形式で書かれた詩歌です。

18.ヨブ記は創世記の時代に書かれた詩で、それ以外は主にイスラエル王制時代に書かれたものが纏められています。

 

イスラエル民族の豊かな文学表現が施された美しい詩歌を通して、神を信じて生きていく人生の喜びと悲しみを知ることができます。

 

聖書の詩を楽しんでもらう為、用いられている主要な文学手法を3つ紹介します。

 

「対句法」: 同じニュアンスの言葉を二度繰り返して意味を強調する文学手法。例(なぜ国々は騒ぎたち諸々の国民は空しいことを企むのか。:詩篇2編1節)
          
「対象対句法」:対極のニュアンスの言葉を対比させ、特定の意味を強調する文学手法。例(初めに神がを創造された。:創世紀1章1節)

 

「交差対句法」:二つの似たような概念を、もう二つの概念と交差させて意味を強調する文学手法。例(Aエヴァはカインを産んだ B:その弟アベルを産んだ Bアベルは羊飼いを A:カインは大地を耕す者となった。創世記4章1節~2節)

 

これらの表現は、聖書全体に見られるユダヤ民族独特の詩的表現なので、聖書を読むうえでは覚えておいて損はないです。          
                             

18.ヨブ記

義人ヨブの一生。

ヨブという清廉潔白な人の人生を通して、神とサタンとの戦いを描いています。

 

神は、ヨブは神を信じる正しい人の代表であるとして自慢していましたが、サタンはヨブの正しさは物質的に満たされているから保たれていると主張し、 ヨブの人生に横やりを入れ、神の許可を得て彼を試します。サタンはヨブの富、家族、しまいには健康な体をも奪おうとしますが、ヨブは最後まで神への信仰を失いませんでした。

 

多くのものを失ったヨブは、最後目の前に現れる神に何を思い、何を言うのか、というのが見どころです。

 

「信仰とは何か」、ひいては「信じる」ということはどういうことなのか教えてくれる良著です。


             
基本的にこの書は、神を信じている人の人生の本質を説明しているので、信者向きの書になると思いますが、信徒でなくても、神とはどのような存在なのかを知ることができるのでオススメです。

 

難易度★★★(3)(必要な背景知識は、ほぼこの書に書かれていることだけで事足りるし、比較的読みやすいのでこの難易度設定)
 

            

19.詩篇

イスラエル王国の讃美歌集。

内容の約半分がダビデ王の人生経験に基づいた内容となっていて、神を信じる生き方の幸いを学ぶことができます。

 

詩篇は編集者が内容を5つの巻に区分していて、創世記から申命記までを順番にたどるように、内容が意識され、神への讃美歌が纏められています。

 

1篇~41篇までが第1巻で創世記に対応します、41編~72篇までが第2巻で出エジプト記に対応します、73篇~89篇までが第3巻でレビ記に対応します、90篇~106篇までが第4巻で民数記に対応します、107篇~150篇までが第5巻となり、申命記に対応しています。

 

また中にはエスキリストの到来に関する預言的な詩が多く含まれているので、聖書預言がどれほど正確なのかを推しはかることも可能です。

 

 詩であるが故にすべてが韻文であり、多くの言葉遊びや文学表現が施されているので、イスラエル民族独特の表現方法を知ることができます。

 

難易度★★★(3)イスラエルの王制時代の知識が要求される箇所がありますが、知識が無くても書かれている大まかなニュアンスは理解できると思うのでこの難易度設定)

 

             

20.箴言

ソロモン王の日常生活における教訓。

賢王と称されたソロモンの知恵が、肉体と精神、正義と不義、智者と愚者、金と女等のテーマで記されています。全てが各論的に書かれており非常に読みやすく、神を信じているいないに関係なく読むことができます。 

 
            
人との付き合い方や誘惑との向き合い方等の具体的な教えを通して、聖書のいう正しい人の生き方が学べる書となっています。

 

 難易度★(1)(すべてが各論的に書かれていて、特にストーリーは無いのでこの難易度設定)

 

 

21.伝道者の書

神を信じない者の人生の空しさを教えた書。

この書の著者はソロモンで、神から多くの祝福と知恵を受けた彼自身が、神を信じない人生を探求した体験を元に記されています。

 

冒頭の言葉「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者の言葉。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。(1章1節~3節)」という言葉にこの書は集約されます。

 

「自分は一体何のために生きているのだろう」という、人ならば誰しも持っている疑問に光を当てる書です。

 

 難易度★★(2)(特別な知識はさほど要求されないのでこの難易度設定)

 

 

22.雅歌

ソロモンの結婚生活への賛歌。

非常にロマンティックで、健全なエロスを感じる雅な詩歌となっています。

 

ソロモンとその妻がひたすらイチャイチャする内容となりますので、リア充は閲覧注意です。

 

古代人と現代人とでは、結婚観にギャップがあるので、そのまま現代人に適用することはできないですが、健全な男女関係に基づいた結婚が、如何に祝福に満ちたものかを学ぶことができます。

 

難易度★★★(3)(当時のイスラエル民族の結婚に関する背景知識が少しだけ要求されるだけなのでこの難易度設定)

 

 

預言書

23~39までは、神のことばを預かった預言者の言葉が記されている預言書です。多くは韻文の形式で記されており、文学表現が施されています。

 

預言というのは、所謂予言とは違います。占い師などがする‘‘予言‘‘は‘‘未来を予知すること‘‘を目的としていますが、‘‘預言‘‘というのは‘‘神のメッセージを伝えること‘‘が第一義的な目的です。

 

神からのメッセージであることが証明されるために、未来のことに関する言及を含むのが預言の特徴です。

 

ソロモン王の引き起こした宗教的堕落を機に、国民の精神性が病んでいく中、神が自身の言葉を託した預言者を遣わしてイスラエル民族に警鐘が鳴らされます。

 

捕囚期前預言書

預言書はイスラエル王国滅亡の決定打となる歴史的出来事「バビロン捕囚」を起点に、捕囚期前、捕囚期中、捕囚期後と3つに分けられます。

 

古代中近東において、侵略国が反乱防止や人材確保の為、敵国民の自国への強制移住政策「捕囚」がよく行われていましたが、バビロン捕囚では、当時最強国家であったバビロン帝国にイスラエル南王国の民が、上流階級を中心に捕虜として引いて行かれました。

 

イスラエル王国の国力衰退の原因となった南北分裂の後、多くの預言者は南王朝に遣わされ、バビロンの脅威に警鐘を鳴らしますが、一部の預言者は北王朝に遣わされました。

 

北王朝に遣わされた預言者は、バビロン捕囚よりも約200年前に起こった、北王国の滅びの決定打となった出来事、バビロンの前の時代の強国アッシリア王国による「ニネべ捕囚」という脅威に対して、主に警鐘を鳴らしています。

 

 

捕囚期前預言書は列王記と歴代誌の時代が背景になっているので、時代背景を理解したうえで読めば、より楽しめるでしょう。

 

          
当時の覇権国の手によって王国が滅亡の危機に瀕している中、神が契約の民に対して何を思い、どのような希望を示したのかが記録されているのが、捕囚期前預言書特徴です。

 

23~25飛んで28~36が捕囚期前預言書に該当します。
           

 

23.イザヤ書

滅びゆくイスラエル南王朝に対する預言。

預言者イザヤは紀元前8世紀頃、約60年間活躍した預言者です。

 

王国が南北に分裂し、滅亡の様相を呈していたイスラエル王国の衰退期、神から遣わされた預言者イザヤを通して語られた言葉が記されています。時代背景としましては列王記第二の時代です。

 

イザヤ書は基本的には韻文で書かれていて、神が滅びゆく民に何を思われていたのかが詩歌で表現されています。

 

また預言書の中で最もバラエティーに富んだ預言が記されていて、聖書の中で最もボリュームがある書です。

 

この書は大きく分けて2つの区分で別けられており、日本語訳では分かりずらいかもしれませんが書き方のスタイルが変わっていて、イスラエルが神の計画を進める為、契約の民として選ばれたというアイデンティティーが、其々の区分で確認されています。

 

第1区分:1章~39章では創世記、特に神が人類と結ばれたアブラハム契約」を想起させるように書かれ、同世代の民に不道徳への糾弾や、悔い改めを迫る預言がまとめられています。

 

第2区分:40章~66章では出エジプト記、特に砂漠で神がイスラエルの民と結ばれたモーセ契約」を想起させるように書かれ、将来必ず起こるバビロン捕囚を背景に、次世代の同胞への慰めや、励まし等の預言がまとめられました。

 

ほかにもイスラエルに敵対する国家への 裁き、救い主の到来、イスラエル王国の回復等多くテーマの預言が記されています。

 

イザヤ書で既に成就した未来の預言は「バビロン捕囚(紀元前586年)」「バビロン捕囚からの帰還(紀元前538年)」「イエスキリストの処女懐胎(紀元前7年頃)」等で、未だ成就を見ていないものは「大患難時代の到来」「イスラエル王国の回復」等です。
              
               
難易度★★★★★★★★★(9)(列王記の時代のイスラエル王国及びその周辺国に関する知識、及び8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっております。)
               
               

 

24.エレミヤ書

滅びゆくイスラエル南王朝に対する預言。

王国が南北に分裂し、国が徐々に滅亡に向かっていたイスラエル衰退期に神から遣わされ、預言者として紀元前627年~紀元前586年まで活躍したエレミヤを通して語られた神のことばが記されています。


エレミヤ書は基本的に韻文で書かれていて、神が滅びゆく民に何を思われていたのかが詩歌で表現されています。時代背景としましては列王記第二の時代です。

 

預言書はイスラエル崩壊以前のものと、崩壊以後のものによって分けられるのですが、エレミヤ書イスラエル南王国崩壊以前の数十年前から、丁度崩壊の年、紀元前586年までをカバーしている橋渡しの役割をする預言書です。

 

エレミヤは最後まで祖国に残り続け、涙を流しながら預言を語ったことから「涙の預言者」と呼ばれることがあります。

 

預言のテーマとしましては、イスラエル民族の神への背信に対する糾弾、イスラエルに敵対する国家への裁き、イスラエル王国の回復等です。

 

エレミヤ書で既に成就した未来の預言は「バビロン捕囚(紀元前586年)」「バビロン捕囚が70年で終わること(紀元前609年~紀元前539年)」「イスラエルの再建(紀元前515年)」「新約の成就(紀元25年頃)」等が挙げられます。

 

難易度★★★★★★★★★(9)(古代中近東の国際情勢に関する理解、列王記の時代のイスラエル王国に関する知識、及び8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっております。)

              

 

25.哀歌

滅びゆくイスラエルへの弔歌。

預言者エレミヤが滅びゆくイスラエルに向けて歌った詩歌であり、エレミヤ書のあとがきです。

 

荒廃したイスラエル王国を弔う内容の詩歌が、様々な文学手法が用いられ、表現されています。また預言的な内容も含むため、預言書としても価値があります。

 

哀歌は全部で5章あるのですが、1章1章が1つの歌となっております。合計5つの歌からなっており、亡国のイスラエルに残っている捕囚されなかった居残りの同胞に対して、罪がもたらす結果の恐ろしさと、神に立ち返れば再び希望があることが歌われています。


        
難易度★★★★★(5)イスラエル王国が亡国となり、エレミヤがそれに対して嘆いているという最低限の知識があれば読めなくはないのでこの難易度設定)

 

 

 

捕囚期中預言書

預言書はイスラエル王国滅亡の決定打となる歴史的出来事「バビロン捕囚」を起点に、捕囚期前、捕囚期中、捕囚期後と3つに分けられます。

 

古代中近東において、侵略国が反乱防止や人材確保の為、敵国民の自国への強制移住政策「捕囚」がよく行われていましたが、バビロン捕囚では、当時最強国家であったバビロン帝国にイスラエル南王国の民が、上流階級を中心に捕虜として引いて行かれました。

 

高い教育水準の貴族階級の人間を中心に捕虜として民が引かれていく中、神は預言者を通して離散していくイスラエルの民に、将来何を計画しているのかどのような希望を与ているのかが見どころです。

 

26、27が捕囚期中預言書に該当します。

 

             

26.エゼキエル書

捕囚中イスラエル民族への預言。

エゼキエルは紀元前593年~紀元前571年まで活躍した預言者です。

 

宗主国バビロン帝国の捕囚民隔離用のコロニーであるテルアビブで、国家滅亡の折、絶望の淵にいる民に神のことばを宣べ伝えました。

 

預言者エゼキエルは神殿で従事する祭司でもあったため、預言の内容は神殿に焦点が当てられています。彼はソロモン神殿崩壊の預言と、将来神殿が再建される希望を語り、捕囚の只中にあるイスラエル民族を励ます働きをしました。


                
エゼキエル書で既に成就した未来の預言は「ソロモン神殿崩壊(紀元前587年)」等で、未だ成就を見ていないものは「新しい神殿の建設」「イスラエル民族の宗教的回復」「イスラエル王国の再建」「エゼキエル戦争」等が挙げられます。


                
難易度★★★★★★★★★(9)(古代中近東の国際的勢力に関する理解、列王記の時代のイスラエル王国に関する知識、及び聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっております。)

 

 

27.ダニエル書

世界の覇権国の変遷と契約の民イスラエルの変遷。

ダニエルは宗主国バビロン帝国に捕らわれたイスラエルの貴族階級の人物であり、紀元前605年~紀元前536年まで活躍した預言者です。

 

彼は捕らわれの身でありながら帝国内でエリート教育を受け、 智者として仕えて王からも信頼を得ていました。

 

宗主国の高官として王に仕えながら激動の時代を生き抜き、これからの世界情勢と契約の民であるイスラエルの民の将来を、神がこれからどのように計画しているのかを預言しています。

 

ダニエル書は黙示文学という非常に特殊な手法で記されており、神からの示しを象徴的表現を用いて表しています。預言書は神からの示しを韻文で書いているのに対し、黙示文学は神からの示しを象徴表現を用いた散文で書いているの特徴です。

 

日本語訳では分かりませんが、ダニエルは原文では2つの言語で書かれており、世界に対する神の計画に関しては当時の世界の公用語であるアラム語で記され、イスラエルの民に対する神の計画に関してはヘブル語で記されています。

 

 ダニエル書で既に成就した未来の預言は「バビロンの王ベルシャツァルの没落(紀元前530年頃)」「ペルシャ国王の変遷(紀元前559年~紀元前485年)」「世界の覇権国の変遷の第4段階まで(紀元前539年~紀元前27年)」等で、未だ成就を見ていない預言は「世界の覇権国の変遷の最終段階」「大患難時代の到来」等です。

 

難易度★★★★★★★★★(9)(古代中近東の国際的勢力に関する詳細な理解、聖書全体に見られる8つの契約に関する知識、黙示文学という文書の特質などを考慮してこの難易度設定)

 

 

28.ホセア書

滅びゆくイスラエル北王朝に対する預言。

ホセアは紀元前793年~紀元前753年に北王国で活躍した預言者であり、「結婚」をテーマとして神の預言を語っています。

 

彼は神と心を一つにして預言を語るために、娼婦と結婚し、更にその娼婦が生んだ 誰がの子かわからない身寄りのない子を引き取ることによって北王国の罪を表しました。


 ホセア書は「契約」というテーマで、イスラエルと神の契約書にあたる申命記を意識して書かれた預言書です。

 

ホセアは人が人とする最も普遍的な契約関係である結婚をテーマとして、神とイスラエルとの契約関係の堕落を表現しています。


神はイスラエルの夫として姦淫の妻に何を思っているのか、またどの様な希望を示しているのかを知ることができます。

 

ホセア書で既に成就した未来の預言は「ニネべ捕囚(紀元前722年)」「異邦人(非イスラエル民族)に対する神の救いの伝搬(紀元1世紀)」で、未だ成就を見ていない預言は「イスラエル民族の宗教的回復」等が挙げられます。

 

難易度★★★★★★★(7)(古代中近東の国際的勢力に関する理解、列王記の時代のイスラエル王国に関する知識、及び聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっておりますがあまりボリュームが無いのでこの難易度設定)

 

 

29.ヨエル書

滅びゆくイスラエル南王朝に対する預言。

ヨエルは紀元前835年頃に南王国で活躍した預言者であり、「蝗害(こうがい:イナゴの害)」をテーマとして神の預言を語っています。

 

1年の収穫を食い尽くされる、国の死活問題となる蝗害を通して、南王朝に 迫りくる脅威に警鐘を鳴らしました。

 

ヨエル書は、神は人を妬むほどに愛しているという事を表している預言書です。

 

神は、イスラエルの民ひいては人間一人一人が自分のところではなく、滅びに向かっていくのを見て思わず身をよじるほどに心を焼く存在であることが示されています。

 

ヨエル書で既に成就した未来の預言は「バビロン捕囚(紀元前586年)」「南王国を4回に渡って襲った蝗害(紀元前7世紀)」、未だ成就を見ていない預言は「イスラエルの民族的救い」等です。

 

 難易度★★★★★★★(7)(古代中近東の国際的勢力に関する理解、列王記の時代のイスラエル王国に関する知識、及び聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっておりますがあまりボリュームが無いのでこの難易度設定)

 

 

30.アモス

滅びゆくイスラエル北王朝に対する預言。

アモスは、紀元前770年~紀元前750年の間のどこかで、北王国で活躍した預言者であり、「不義」をテーマとして神の預言を語っています。活躍した期間はわずか1年に満たない短い期間でしたが、内容は非常に濃いです。

 

当時イスラエルは物質的には比較的豊かな時世でしたが、宗教的堕落、精神的堕落が顕著に進んでいました。そんな折、彼は南ユダ王国の田舎町から、北王国の神以外の偶像を祀る神殿のあった町、大都会べテルを拠点にイスラエルの不義を糾弾します。

 

アモス書は外面的にいくら豊かでも、内面的に腐敗している国は決して立ち行かないことを教えてくれる預言書です。

 

アモス書で既に成就した未来の預言は「ニネべ捕囚(紀元前722年)」「べテルの祭司アマツヤ一家の滅び(紀元前722年頃)」「イスラエル王国周辺国家の滅亡」、未だ成就を見ていない預言は「ダビデ統一王朝による南北統一」等が挙げられます。


 難易度★★★★★★★(7)(古代中近東の国際的勢力に関する理解、列王記の時代のイスラエル王国に関する知識、及び聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっておりますが あまりボリュームが無いのでこの難易度設定)

 

 

31.オバデヤ書

イスラエルの敵国エドムに対する預言。

オバデヤは、紀元前8世紀頃活躍した預言者であり、「神以外のものを頼りにする者の儚さ」をテーマとして神の預言を語っています。

 

オバデヤはいつどこで活躍したか詳しいことは分かっておりませんが、 イスラエル民族に敵対しているエドムという岩山の上に居を構える国家に対して預言しています。

 

アブラハムの孫ヤコブの兄であるエソウから派生した、イスラエルの兄弟民族であるエドム人は、堅固な岩に守られているという自負があり、絶対に滅びることは無いという確信に基づく高慢がありました。

 

そんな確信をよそにオバデヤは、神なき所には必ず滅びがあるという事を語り、神を無視するものに対する裁きを示しています。

 

オバデヤ書は神なき人生の末路が如何に悲惨かを教えている預言書です。因みにオバデヤ書は預言書の中で最も短い書でもあります。

 

オバデヤ書で既に成就した未来の預言は「エドム滅亡(紀元前5世紀)」、未だ成就を見ていない預言は「約束の地カナンの平定」などが挙げられます。

 

難易度★★★★★(5)(古代中近東の国際的勢力に関する理解、列王記の時代のイスラエル王国に関する知識、及び聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっておりますが、極端にボリュームが少ないのでこの難易度設定)

 

 

32.ヨナ書

イスラエルの敵国アッシリアに対する預言。

ヨナは、紀元前793年~紀元前753年の間にアッシリア帝国の首都ニネべで活躍した預言者であり、「神の権威」をテーマとして預言を語っています。

 

外国に対して神の裁きを語ることによって、神は契約の民イスラエル民族だけでなく、全人類の神であることが表わされています。

 

ヨナ書は、ヨナが敵国で預言を宣べ伝えることを恐れて逃げるところから始まります。

神は、自然界をコントロールすることによって、もっとも恐れるべきは何かを彼に思い起こさせ、その主権を示しています。

 

神とはいったい何者なのかという聖書の大前提を提示している預言書です。また預言書の中では唯一預言者が語ったことがそのまま成就しなかった書でもあります。

 

成就しなかった理由とは一体何なのか...そこに、この書の注目点があります。

 

ヨナ書で既に成就した未来の預言は「キリストの復活(紀元25年頃)」が挙げられます。

 

難易度★★★★★(5)(預言というよりかはヨナの預言者としての半生が主体なのでこの難易度設定)

 

 

33.ミカ書

滅びゆくイスラエル南王朝に対する預言。

ミカは、紀元前8世紀頃活躍した預言者であり、「貪欲」をテーマとして神の預言を語っています。主に北王朝の滅亡のきっかけとなる事件「ニネべ捕囚」のついて警鐘を鳴らしているのですが、聞いている聴衆は南王国の人々です。


当時のイスラエルは農業生産が豊かになり、物質的に非常に栄えていましたが、精神的には堕落していました。役人は重税を取り、裁判官の役割も務めていた祭司は、賄賂を取って裁きを捻じ曲げていました。

そんな中、ミカは彼らの尽きることのない貪欲を、やがて北王国を襲う滅びを通して糾弾しています。


             
因みに、ミカ書の「彼らはその剣を鋤に、その槍を釜に打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いの事を習わない。」(ミカ4-3)という言葉は、ニューヨークの国連本部の前の石碑に刻まれています。

 

ミカ書で既に成就した未来の預言は「ニネべ捕囚(紀元前722年)」「イエスキリストのベツレヘムでの誕生(紀元前6年頃)」、未だ成就を見ていない預言は「イスラエル民族のヨルダンのペトラへの避難」「エルサレムの復興及び拡張」等が挙げられます。

 

難易度★★★★★★★(7)(古代中近東の国際的勢力に関する理解、列王記の時代のイスラエル王国に関する知識、及び聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっておりますが、あまりボリュームは無いのでこの難易度設定)

 

 

34.ナホム書

イスラエルの敵国アッシリアに対する預言。

ナホムは、紀元前600年代に敵国アッシリアの首都ニネべの滅びの預言を語った預言者です。

 

このおよそ150年前の預言者ヨナの時代に滅びを免れたニネべに対し、再び滅びの預言が語られます。

 

当時のアッシリア帝国は強大な力を持ち、捕虜の生皮を剥いで晒すなどの残虐な行為から非常に恐れられていました。

 

強大な力を振るい、イスラエルにも威張り腐るアッシリア帝国に対して、ナホムは、次世代の覇権国家であるバビロン帝国とメディア帝国に滅ぼされつくすことを預言しています。

 

アッシリアに対して、ヨナは神の哀れみを示しましたが、ナホム書には神の正義が示されています。神は決して悪を野放しにはしておかないという事を教えてくれる預言書です。

 

ナホム書で既に成就した未来の預言は「アッシリア帝国滅亡(紀元前612年)」などが挙げられます。

 

 難易度★★★★★★★(7)(古代中近東の国際的勢力に関する理解、列王記の時代のイスラエル王国に関する知識、及び聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっておりますが、あまりボリュームは無いのでこの難易度設定)

 

 

35.ハバクク

ハバククと神との問答。

ハバククは、紀元前600年代に南王国で活躍した預言者であり、南王朝の「暴虐」をテーマとして神の預言を語っています。

 

神とハバククとの問答の形式で預言が記されており、当時のイスラエル精神的堕落を神に嘆いています。

 

ハバクク書の「正しい人は信仰によって生きる」(2章4節)という言葉は、新約聖書にもよく引用されており、キリスト教教理の中核を表す言葉としてよく知られています。

 

ハバクク書で既に成就した未来の預言は「バビロン捕囚(紀元前586年)」などが挙げられます。

 

難易度★★★★★★★(7)(古代中近東の国際的勢力に関する理解、列王記の時代のイスラエル王国に関する知識、及び聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっておりますが、あまりボリュームは無いのでこの難易度設定)

 

 

36.ゼファニア書

滅びゆくイスラエル南王朝に対する預言。

ゼパニアは、紀元前640~紀元前609年に活躍した預言者であり、「神の裁き」をテーマとして預言を語っています。

 

神の全世界的な裁きとイスラエル周辺国の裁き、そしてイスラエルに降る裁きに至るまで、全方位に降る神の怒りを示しています。

 

ゼパニア書は特に1章が特徴的で、神の天地創造が記載されている創世記1章が意識されて書かれています。神は天地創造において、大地を造ってから魚、鳥、獣、人の順番で被造物を造りますが、ここではその順番を、人、獣、鳥、魚と言った具合に逆さにすることによって、神の裁きによる被造物の破壊を表現しています。

 

ゼパニア書で既に成就した未来の預言は「バビロン捕囚(紀元前586年)」、「イスラエル王国の周辺国家の滅亡」、未だ成就を見ていない預言は「大患難時代の到来」「ハルマゲドンの戦い」などが挙げられます。

 

難易度★★★★★★★(7)(古代中近東の国際的勢力に関する理解、列王記の時代のイスラエル王国に関する知識、及び聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、非常に高い難易度設定となっておりますが、あまりボリュームは無いのでこの難易度設定)

 

 

捕囚期後預言書

預言書はイスラエル王国滅亡の決定打となる歴史的出来事「バビロン捕囚」を起点に、捕囚期前、捕囚期中、捕囚期後と3つに分けられます。

 

古代中近東において、侵略国が反乱防止や人材確保の為、敵国民の自国への強制移住政策「捕囚」がよく行われていましたが、バビロン捕囚では、当時最強国家であったバビロン帝国にイスラエル南王国の民が、上流階級を中心に捕虜として引いて行かれました。

 

エレミヤ書の預言通り、宗主国による70年の捕囚期間が満了し、荒れ果てた祖国への帰還が許されたイスラエルの民に、国家再建に伴い、神からどの様な励ましのことばがあったのかが記されています。

 

捕囚期後預言書は、エズラ記、ネヘミヤ記が時代背景となっていて、捕囚の後、祖国再建の希望の実現を目の前にした契約の民イスラエルが、精神的にどのように立ち直ったのかが見どころです。

 

また捕囚期後のイスラエルは、王国が一度崩壊しているので、北王朝、南王朝の境は無くなります。

 

37~39までが捕囚期後預言書に該当します。


             

37.ハガイ書

神殿再建に伴う励ましの預言。

ハガイは、紀元前520年にわずか約3か月間活躍した預言者であり、「祝福」をテーマとして神の預言を語っています。

 

当時、他部族からの妨害によって、イスラエルの神殿復興が中断している中、ハガイは、一向に神殿の工事を進めないどころか、神殿の建材を自分たちの家屋の建材としている民に「何さらしとんねん!!」と怠惰を糾弾します。

 

同時にあらゆる戦いの中においても神の護りがあることを預言して民を励まし、その先にある祝福を示しました。

 

ハガイ書はエズラ記1章~6章が時代背景となっており、あわせて読めば状況が良く理解できでしょう。

 

ハガイ書で未だ成就を見ていない未来の預言は「イスラエルを中心とした世界の実現」などが挙げられます。
             
 難易度★★★★★★★(7)(捕囚期後のイスラエル民族に関する背景知識、バビロン捕囚の預言に関する理解、聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、高い難易度設定となっております。)

 

 

38.ゼカリヤ書

イスラエル王国の将来の展望。

ゼカリヤは、紀元前520年~紀元前470年までの約50年間活躍した預言者であり、「王」というテーマで神の預言を語っています。

 

物語の背景はハガイ書と全く同じで、イスラエルの新たな神殿の着工が中断している時代のことであり、その只中で将来のイスラエルの繁栄を預言することによって民を励ましています。

 

 ゼカリヤ書はエズラ記1章~6章が時代背景となっており、あわせて読めば状況が良く理解できるでしょう。

 

また、ゼカリア書の多くの預言は、新約聖書の時代イエスキリストの到来によって成就しているため、旧約聖書の中で、最も新約聖書で言及が多い書となっています。

キリストの生涯の伏線が最も多くみられるので、新約聖書を読まれる際は、要チェックです。

 

未だ成就を見ていない預言も多数あるので、この書で預言されている希望は、現代に至るまでイスラエルの民、或いはユダヤ教徒キリスト教徒の希望となっています。

 

 ゼカリヤ書で既に成就した未来の預言は「イエスキリストのロバに乗ってのエルサレム入場(紀元25年頃)」「銀貨三十枚で値積もりされるイエスキリストの預言(紀元25年頃)」、未だ成就を見ていない預言は「イスラエルの民族的の救い」「エルサレム周辺の地形の激変」「イスラエルの祭日、仮庵の祭りを全世界の人々が祝うこと」などが挙げられます。

 

 難易度★★★★★★★★(8)(捕囚期後のイスラエル民族に関する背景知識、バビロン捕囚の預言に関する理解、聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、高い難易度設定となっております。)
               

 

39.マラキ書

神への侮りへの糾弾。

マラキは、紀元前515年の神殿完成以降に活躍した預言者であり、「神への侮り」というテーマで預言を語っています。

 

物語の背景は、ハガイ、ゼカリヤ書より数十年後であり、新たな神殿が完成したはいいものの、先の預言者によって語られた預言がなかなか成就しないことに失望を覚えた民が、神への信仰を失い、神を侮っていた時のことです。

 

ハガイはかつてのような栄華を誇ったイスラエル王国の実現を待ち望む民として、その態度は本当に相応しいのかと、民に今一度問いただします。

 

マラキ書はエズラ記1章~6章が時代背景となっており、あわせて読めば状況が良く理解できるでしょう。

またマラキ書はイスラエルの民と神との対話形式で預言が記されており、民が普遍的に抱いていたテーマを取り上げて、神が一つ一つに答えているのが特徴の預言書です。

 

既に成就した未来の預言は「洗礼者ヨハネの到来(紀元6年頃)」「イエスキリストの到来(紀元6年頃)」、未だ成就を見ていない預言は「預言者エリヤの再来」「キリストの再臨」などが挙げられます。

 

難易度★★★★★★★(7)(捕囚期後のイスラエル民族に関する背景知識、バビロン捕囚の預言に関する理解、聖書全体に見られる8つの契約に関する知識等の高い専門的知識が要求される為、また専門家でも大きく意見が分かれる為、高い難易度設定となっております。)

 

以上です。読むときの参考にしていただきたいと願います。

 

 

「ご紹介」

1.サムネイルの絵

旧約曼荼羅

サムネイルの絵のタイトルは、旧約曼荼羅(きゅうやくまんだら)です。

 

曼荼羅(まんだら)とは、チベット密教等の教理体系を模式的に示した円図形のことをいいますが、この図は旧約聖書の教理を模式的に表したものです。

 

ところで、旧約聖書が基本的に歴史書であるということは、一般的にはあまり知られていません。

 

旧約聖書は、人類史の中に確かに神が働かれているということを、様々な出来事を通して描くことによって、神とは一体何なのかを表現している宗教書でありながら、同時に正確に歴史的事実を取り扱う歴史書なのです。

 

読者が、人類歴史の中に本物の宗教を見出すことができるように、歴史を通して神の摂理が描かれています。

 

この絵は、‘‘旧約‘‘曼荼羅とある通り、神と人との旧い契約の中核であり、旧約聖書の宗教性の表われである、モーセ十戒を中心として、歴史の中で神が働かれた様々な出来事を、視覚的に表現したものです。

 

また、同時に神に反発する力がどの様に働いたのかも描かれています。

 

旧約聖書を読む際の助けとなれば幸いです。

 

 

2.聖書をお求めの方へ

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聖書を読もうと思っているそこのあなた!本当に準備できてる?(聖書を読むうえでの心構えと最低限の知識を厳選し紹介)

こんにちは、来栖川クリスです。

今回は聖書の読み方ついてキリスト教伝道者がしっかりと解説していきます。

本記事は聖書を読んでみたいけど、読むにあたってどういう知識が必要かわからない人、或いは、どこから読んだらいいか分からない人必見です。 

聖書を読むうえで必要な心構えと、最低限の知識を簡単に理解できる内容となってますので、是非ご利用ください。

 

目次

➼ 何を求めているのかを明確にしよう

➼ 聖書の目的を知ろう

 

➼ 聖書のメインストーリーを理解しよう

➼ 聖書の構造を理解しよう

 

 

➼ サムネイルの絵 

➼ 聖書をお求めの方へ

 

 

【聖書を読むうえでの心構え】

 聖書は誰でも読むことができますが、ある程度の覚悟が必要になる書です。キリスト教伝道者として、皆さんには構えずにもっとライトに読んでほしいと思うのですが、正直言って小説感覚で読んだら大変ギャップを感じると思います。

 

と言いますのも、聖書はたくさんの要素を含んでおり、ページ数も膨大だからです。

 

聖書は旧約39巻、新約27巻、計66巻となっており、文字数は約200万語、ページ数にして2154ページあります。その要素は多種多様で、宗教的要素、歴史学的要素、考古学的要素、文学的要素、哲学的要素等様々あります。

 

 山登りに例えるのなら、一般的な書を読むことは富士登山で、聖書を読むことはエベレストに登るような感覚でしょう。

 

ですから、多少の案内と足がかりになる心構えが必要になります。

 

「何を求めているのかを明確にしよう」

 聖書とひとえに言っても様々な要素が含まれるので、何も考えずにパッと手に取って読むことはオススメしません。

 

山に何の案内や装備もなく登るようなものだからです。

 

山に登る時は、何を目的に登るのか、どこから登るのか、何を持っていくのか、何処まで登るのかという事をある程度考えますよね。

 

同様に聖書を読むにあたっては、ある程度の計画性が必要です。

 

最も必要なのは、読むにあたって”何を目的としているのか”ということでしょう。

 

自分が聖書のどの様な要素に需要を感じて、どの様な必要を満たそうとしているのかという目的を明確にすることは、読むうえでの足がかりになってくれます。

 

聖書は66巻からなっており、1巻1巻がかなりの情報量なので、目的によって読む所を自由に選ぶことができます。

 

古代中近東の歴史学的な探求をしたい場合は、聖書の年代記である「歴代誌」や「列王記」を、紀元後の時代ならば、歴史書である「ルカによる福音書」や「使徒行伝」を読めば時代背景がよく分かります。

 

軽く聖書の格言や詩などに触れたい場合は、「詩篇」やソロモンの「箴言」「伝道者の書」を読めば、聖書の精神性の高さを簡単に、且つ手軽に押し測ることができます。

 

宗教的な論考が目的ならば神学的な内容を含む「ヨハネによる福音書」や新約聖書の手紙類を読めば一神教宗教の基本的な教理を理解することができます。

 

哲学的な論考が目的ならば聖書全体からテーマを抽出することができます。

 

目的もなく読んで、すべての意味を正しく理解できるほど聖書の情報量は薄くありません。知りたい情報に応じて読む所を決めて、徐々に少しずつテーマに沿って読んだ方が内容を理解しやすいでしょう。

 

自分が今、何を求めているのかを明るくしておくことは、聖書のどの巻を読むかの選択に関わってくるので、非常に大切ことなのです。

 

まさか2154ページある聖書を何も知らない状態で、冒頭から最後まで読もうとする無謀な人はなかなかいないでしょう。

 

神父や牧師、伝道者ですらようやりません。

 

登山の際、クライミングなのか、ハイキングなのかによってコースを選択するように、聖書を読むうえでは先ず、自分は何を求めているのか明確にすることを強くオススメします。

 

 

「聖書の目的を知ろう」

 どのような本でも、必ず執筆目的がありますよね。

 

例えば、歴史書の目的は「過去の出来事を後世に伝える」という目的を持っています。

 

哲学書の目的は、「人間が考えていることの分析」という目的をもっています。

 

聖書も同様です。聖書には様々な書が含まれますが「神を信じる」という目的で一貫しています。     

 

この目的を知らぬまま読もうとすれば、聖書は大きな誤解をもたらすものとなります。

 

事実、聖書の内容を誤解して、怪文書のように読み、自分の目的の為に利用することは古代からよくありました。

      
現代も同様です。巷には聖書にまつわる都市伝説や陰謀論があふれています。代表的なのは「フリーメイソン」に関するものでしょう。

 

メイソン自体が聖書の記述や権威を利用して結社の神秘性を高め、人集めをしています。

 

他には聖書の章節を利用し創作された「バイブルコード」、ユダヤ人の誤った歴史観から生まれた「イスラエルの失われた10氏族の謎」、日本人の選民思想からささやかれている「日ユ同祖論」、一昔前の小説が元ネタである「キリストの聖杯伝説」、地方の教会伝承から生まれた「キリストの子孫存在説」、オカルティズムから生まれた「レプティリアン爬虫類人間)世界支配説」等、挙げればきりがありませんが、聖書からセンセーショナルな文言だけを切り取って繋げ、自分の仮説へと持っていき、金儲けや承認欲求の為に人を集めようとする者が後を絶ちません。

  

全ては聖書の目的を理解しようとせずに自分の目的に引き込んで利用された結果生まれている誤解であり、残念ながらすべて聖書の記述から創作された作り話です。

 

目的が忘れられた時、聖書は誤って理解される傾向にあります。

     

聖書の言葉は人に利用されるためにあるのでも、或いは、神を信じない人生の歩みを助長するでもありません。

 

神を信じて生きていく人生へと導びき、人を根本から変える為にあります。神を信じて生きていく人生と、そうでない人生は全くの別次元にあるものです。

 

神を信じて生きていく人生にこそ、人間としての尊厳と価値を失わない、自由で真の意味で充実した人生があるというのが聖書の大前提となる主張です。

 

故に、信じないものの人生の愚かさや空しさが示されることもあります。

 

それは読者に「神を信じるのか」「信じないのか」の二択を迫る為です。

 

聖書の言葉は誰でも親しむことができますが、共に生き方の変革を求められるような厳粛さも兼ね備えていることを知っていただきたいと思います。

 

神と人との約束のを記録する為の歴史、人を神に至らしめる為の格言や教え、神の栄光を讃える為の預言、詩歌、すべては、まだ信じていない人には信じるようになるために、既に信じている人には常に信じるようになるために、人の心を神に向かわせるために書かれているのです。

 

 

【聖書を読むうえでの最低限の知識】

 率直に言って、聖書は脳死で読めるほど簡単な書ではありません。正しく理解する為には、最低限必要な知識があります。

 

漫画等のフィクションを取り扱った作品は、物語から脱線することがあっても、きちんと本筋があってお話が成り立っています。

 

それは作者が物語を飽きさせない為、或いは物語の本筋の意味を際立たせるための創意工夫です。

 

同じ様に聖書にも本筋があり、また本筋から話がそれることもあります。

 

それぞればらばらの時代に書かれたものが編集された聖書ですが、すべて同じ目的が設定されており、すべて同じ本筋の元物語が進んでいきます。

 

それは其々の書の書き手が、同じ信仰に立って聖書を書き記したことの表われです。

 

しかしフィクション作品と違うのは、すべて実話で物語が組み立てられているという点です。それが聖書のすごいところでしょう。

 

是非、何がメインストーリーなのか、何が伏線なのか、構造を理解していただいてから聖書を読んでいただきたいと願います。

 

 

「聖書のメインストーリーを理解しよう」

 バラエティ豊かな聖書ですが、骨格となる本筋に基づいて、すべてが書かれています。その背骨にあたるのが神の「人類救済計画」という聖書全体を刺し貫いている大きな文脈です。

 

人は救われるべき存在であり、神が人類の創り主として、数々の救いの計画でもって歴史に介入してきたという事を記しています。

 

神の最も理想的な創造物である人間は、かつて罪を犯し、呪われ、堕落し、結果「死」という報酬を得たというのが聖書の人間観です。

 

聖書物語は神の理想的な創造と、人間の堕落から始まります。

 

罪の結果であり、最大の悲劇である「死」を、如何にして克服するかというテーマで、人は葛藤するのです。

 

その中で神は人類の創造主として、人類歴史に介入し、人類の救いの為に取り計らうというのが聖書の本筋になります。

 

罪と死の中で葛藤する人類は、神を信じないで「死」に踊らされる流れと、神を信じて「死」を克服する流れとに真っ二つに分かれます。

 

聖書を通して、2つの道は決して交わることなく平行に描かれ、それぞれの生き方の本質をむき出しにし、どちらの道を選ぶかを常に読者に迫ります。

 

もちろん聖書は神を信じて生きていく道を勧めています。

 

神の救いの手を取る道を歩むことこそ、神に造られた人間本来の目的であると、人類の歩みを通して、聖書は証言しているのです。

      
聖書の内容の、多種多様な要素である歴史や教え、法、詩、預言は、神が如何にして人類を救いに導いているかを示すための枝葉の部分にあたります。

 

ぜひ聖書を読むことによって、自らの歩むべき道を点検してみてください。
     

 

「聖書の構造を理解しよう」 

 神は、人類を救済する為に「契約」という方法を用いて人類歴史に介入し、合計8回の契約を結びます。それに伴い、聖書は世界の始まりから終わりまでを前後半で8つのポイントで描いています。

 

先ず聖書は‘‘古い契約‘‘から‘‘新しい契約‘‘へと移る大きな物語の進展から、旧約聖書新約聖書とに大きく2つに分けられます。

 

かの有名な、キリストが十字架にかかり、人類の罪の為に死なれた というお話が‘‘新しい契約‘‘の内容であり、十字架以降のお話が新約聖書として記録されています。

 

世界の始まりから新しい契約に至るまでの神と人との契約の歴史が、新約と対比して旧い約束とされ旧約聖書としてまとめられました。

 

神の救いの成就である「新約」が、神の人類救済計画の記録である聖書全体の主体となっており、「旧い契約」は「新しい契約」 の伏線となっております。

 

神と人との8つの契約を時系列に並べて列挙いたしますと…………

  1. 神の人類に対する祝福を示した「エデン契約」
  2. 神が罪の呪縛に堕ちた人類をどの様に救われるかを示した「アダム契約」
  3. 神の全世界への裁きを示した「ノア契約」
  4. 神の人類救済の土壌を示した「アブラハム契約」
  5. 神の救いに与るには何が必要なのかを示した「モーセ契約」
  6. やがて世界を救い治める王が現れることを示した「ダビデ契約」
  7. 人類の罪からの救いの成就である「新約」
  8. 救い主と救いに至る者たちが治める世界の到来を示した「御国の契約」

という具合になります。

 

現在人類は7番目の契約「新約」までを終え、8番目の契約「御国の契約」へと向かっているというのが聖書の歴史観です。

   

人生は総じて「自分がどの様に始まって、どの様に終わるのか」という自分の歴史観をなぞる歩みです。例外はありえないでしょう。

 

自分の始まりを偶然と位置付ければ、偶然に生き、偶然に死んでゆきます。偶然から必然は生じ得ないからです。

 

しかし聖書の言う、神と人との8つの約束に人生の初まりと終わりを定めるならば、神という必然から始まり、神という必然へと至ります。

 

信仰者はその必然性を愛と呼び、神に手を合わせます。 

 

 

【聖書はどこから読むべきか】

 聖書を読むうえで、一番最初にどの書に触れるのかということは非常に重要なことです。

 

何故なら聖書の第一印象は初めに見る書で決まるからです。一番最初に選んだ書が難しい知識を要求するものならば、先ず間違いなく読むのに挫折するでしょう。

 

読んでて意味がサッパリ分からない書を読んでも面白くもなんとも無いし、時間を無駄にしてしまいます。

 

そういう人間を何人も見てきまたし、私自身も挫折の経験があります。そうならない為には先ず、比較的難易度が低く読み手を選ばないような書を選ぶことをオススメしたいと思います。

 

聖書に含まれる書の中には、専門的な知識が必要な書とそうでない書、専門的知識が必要でも、さほど詳細な知識が要求されない書とそうでない書とがあって、それぞれ難易度が違います。

 

基本的には古くて専門的な書であればあるほど難しい傾向にあります。

  

例えば旧約聖書レビ記は、およそ3400年以上前に、聖書を記録し守って来たイスラエル民族の祭司職に携わる人に向けて、祭儀法が記録されている書です。

 

故に3400年以上前のイスラエル民族の常識や、祭司職についての専門知識が無ければ意味がさっぱりわかりません。

 

専門家でもすべては絶対に分からないと手を挙げるほどです。

 

或いは、聖書の中でも比較的新しい新約聖書も、最低でも2000年以上前に書かれているので油断なりません。

 

新約聖書の中には、旧約聖書の知識や当時のユダヤ人の常識を読者を、理解していることが前提で記されている書が含まれているので、注意が必要です。

 

極めつけはヨハネの黙示録でしょう。黙示文学と言う読み手のセンスを要求するような、特殊な文学形式で記され、且つ読み手が旧約聖書すべての知識を網羅していることが前提となっているので非常に難解です。

 

私が一番最初に読む書としてオススメしているのは「伝道者の書」です。この書は、韻文形式で書かれている、あのソロモン王が遺した詩歌です。

 

すべてに満たされていたはずの彼が、人生に行き詰まった時、神を信じる人生から離れて心彷徨った様が描かれています。

 

神を信じていない人には、神を信じない人生の空しさを示し、神を信じている人には、神を信じる人生の幸福を思い出させます。

 

聖書の言いたいことが一番簡単に表現されている書です。背景知識はほとんど必要ありません。

 

是非読んでいただいて、自分の人生について黙想してみてはいかがでしょうか。 

 

(まとめ) 

聖書を読む前に何を求めているのかを明確にしよう。

聖書は神を信じることを目的とした書であることを理解したうえで読もう。

聖書の本筋は神の人類救済の歴史である。 

聖書は神と人との8つの約束が、前後半で区分されている。

聖書を読む際は自分の需要と知識に見合った書を選んで読もう。

 

 

「ご紹介」

 

 

サムネイルの絵

ごるごだ

サムネイルの絵のタイトルは「ごるごだ」です。

 

ゴルゴダ」とは当時イスラエルの常用語であったアラム語で「されこうべ(頭蓋骨)の場所」という意味があります。

 

キリストが十字架に架けられた場所一帯を指す言葉です。

 

エスゴルゴダでの磔刑の描写を通して、十字架に対する二つの視点を表現しました。

 

約2000年前のキリストの磔刑は、ある人にとっては「死の象徴」、ある人にとっては「解放」です。

 

キリストを信じない人にとっては、ゴルゴダでの出来事は世界に混乱をもたらす元凶で、血塗られた死の象徴に見えることでしょう。

 

学校の教科書でその様に習ったと思います。しかし、キリストを信じる人にとっては、以前の空しい生き方や、罪からの解放を表す生まれ変わりの象徴です。

 

我々は聖書からその様に教えられています。

 

或いは聖書は、ある人にとっては「古代人の空想」、ある人にとっては「真実の救い」です。

 

あなたにこの絵は、或いは聖書はどう見えますか。

 

 

 

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