聖書の名言 「あなたはどこにいるのか。」(創世記3章9節)
探しものは何ですか♪ 見つけにくいものですか♪
ど〜も、来栖川クリスです🕶。
今回は聖書の名言である「あなたはどこにいるのか。」を、キリスト教伝道者が分かりやすく解説していきます。
本記事は、聖書のことばにすこしだけ触れてみたいと思っておられる方にオススメです。
人間が悪いことをしたときに時に抱く「後ろめたさの正体」とは何かを考える良い機会となると思いますので、是非ご利用ください。
先ず「あなたはどこにいるのか。」という言葉を簡単に解説した後に、この言葉が皆様にどのように関係しているかを見ていきたいと思います。
「目次」
「ご紹介」
1.「あなたはどこにいるのか。」の解説
この言葉は、神がアダムとエヴァに向けて発したものです。
彼らが、いわゆる禁断の果実に手を伸ばした後、エデンの園の木の間に隠れている際に投げかけた言葉で、非常に深い意味が込められています。
ある日エヴァは、蛇にそそのかされ、取ってはいけないと言われていた木の実の魅力に魅入られてしまいました。
蛇が、神がその実を食べてはいけないと禁じたのは、人が神の如き知識を手に入れ、神の如き主体性を持ってしまうからだと告げたからです。
エヴァは、その実をとって食べ、夫アダムにも勧めました。
結果、アダムとエヴァが最初に得た知識は、自らが裸であることでした。
こうして、二人に目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。(創世記3章7節)
この「裸」という言葉は、原語では「エルミム」であり「恥」というニュアンスを含みます。
神から教えられたわけではなく、人間が、主体的に自らが恥ずべき存在であることを知ったのです。
そして、目の前にいる人にも恥ずべきものがあることを知り、互いの局部を葉で隠し、互いを拒絶してしまいました。
人が人のアラを見つけて拒絶することは、人に対する罪の始まりであると言えます。
誹謗、中傷、ひいては人殺しに至るまでを引き起こす危険な性質が、内に宿ってしまったことを、この時人間は知ってしまったのです。
理想的であったアダムとエヴァの関係は、罪によって歪なものと変わってしまいました。
しかし問題なのは、ここから。
彼らが労働を終え、いつも神と対話している時間に差し掛かり、園に響き渡る神の接近の音を察知すると、なんと木の間に身を隠したのです。
神に対しての恐れからの行動で、人間に生じた初めての恐怖でした。
そんな中、「あなたはどこにいるのか。」と神は人に仰せられたのです。
聖書の神のキャラ設定は、いわゆる「ジ・オールマイティ」即ち「全知全能」です。
もちろん、アダムとエヴァが禁断の果実に手を伸ばし、隠れていることも知っています。
知った上で、人間を探し、質問しました。
神はアダムとエヴァに弁明の余地を残したということです。
しかし、彼らから出たのは責任転嫁と逆ギレの言葉でした。
人類の代表であったアダムは、助け手のエヴァに責任をなすり付け、彼女を近くに置いた神のせいにしたのです。
一方でエヴァは、そそのかした蛇に罪をなすり付けました。
もちろん、神の想定内の回答でしたが、期待していたものとは違ったのです。
神が期待していたものとは一体何なのか、その点に、今を生きる私達に関わることがあります。
「あなたはどこにいるのか。」
最初の人間である、アダムとエヴァに発せられたこの言葉は、その子孫であり、同じ性質を受け継ぐ我々にも同じ様に訴えかけていると言えます。
2.神の探しもの「罪の告白」
神がアダムとエヴァに期待していたのは、罪の告白でした。
状況や他人に原因を求めるのではなく、先ず自分の選択が間違っていたことを認めなければ正直とは言えません。
神が彼らの居場所がわかっていながら、あえて人を探したのは、正直な罪の告白を引き出す為だったのです。
そして今も、同じように探しておられます。
何故神は、わざわざ罪の告白を引き出そうとしているのでしょうか。
それは、人が死んでしまっているからです。
聖書において「死」は、第一義的に「神との分離」を意味します。
アダムとエヴァが神を避けて隠れたのは、人間が神と切り離された状態の表れなのです。
そして同時に、自らが罪人であることの証拠でもあります。
車を運転している時に、パトカーが横切ると思わずザワザワして隠れたくなる時ありますよね。
スピード違反してしまってるかも。
あれ?シートベルトしてるっけ?
様々頭をよぎりますが、これは権限を帯びた者の権威に対する恐れから来る感情でしょう。
同じ様にアダムとエヴァも神との約束を反故にしたことに後ろめたさを感じ、裁きの予感を感じたのでした。
自らの主権者に対する権能への恐怖です。
人は誰に教えられなくても、人を殺してはならないことを知っています。
何故か考えたことはありますか?
現代に生きる我々は、何となく法律で決まっているからとか、警察に捕まっちゃうからとか考えがちです。
しかしこの感覚は、世界がまだ無秩序な時からあるものです。
或いは、人殺し以外にも、人は何か悪いことをした時に何か後ろめたさを感じます。
聖書は、人間の後ろめたさを感じる様な感覚は、本質的に神を恐れていることの表れであると説明しています。
彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明しあったりさえするのです。(ローマ人への手紙1章15節)
ここでいう「律法」とは、神が人に定めた要求のことです。
エデンの園での話で例えると、「その実をとって食べてはならない」という神の要求にあたります。
つまり、たとい神を知らなくても、人は神の裁きの座の前に立たされることを予感しているということです。
因みに、この様に人に備わっている神を感じる力を、「霊感」と言いいます。
自分を縛り、裁くものが全くない状態では、何をしても後ろめたさを感じることはないでしょう。
しかし人は、誰にも見られてなくても、誰にも知られてなくても、後ろめたさを感じるのです。
おおよそ、宗教と呼ばれるものは、この後ろめたさを「罪」と呼んでいます。
そして、生きている間に犯す様々な罪を、死後の世界に行くまでに、どうするかを考えるわけです。
つまり罪をどのように処理するかが教理の最大の関心事になっているということです。
ある宗教は、ある特定の行動を取れば罪から救われるとします。
ある宗教は、ある特定の知識を持てば罪から救われるとしています。
またある宗教は、人が罪を犯すのは修練の為であり、生まれ変わりを繰り返し、罪を犯さずに善行してポイントを稼ぐと、やがて救われるとしています。
世界中の宗教が、打ち合わせてなくても、同じように巧みな論法で罪を処理しようとしていることがわかります。
またそれどころか、人は死後の世界に超越者の存在を認め、それに赦しを請うことさえするのです。
どのような文化的背景、国語にあろうとも、人間は同じ様に神を感じていることですね。
それは無宗教と主張している人も、何も変わりません。
もしあなたも後ろめたさを感じているなら、アダムと同じ様に罪の性質を宿してしまったことを認識したことを、正に追体験しているのです。
アダムと同じ経験をしているならば、聖書によれば、あなたは心の中で神を感じていることになります。
神を感じているならば、神の存在を認識しているということですから、自らの行いの申し開きをしなければなりません。
「あなたはどこにいるのか。」
その声の主の怒りから免れる方法を一刻も早く探さねばなりません。
アダムとエヴァの様に自らの恥部を隠蔽し、開き直り、逆ギレするつもりですか。
或いは、その声を聞いても無視し続けるつもりですか。
願わくば、神に正直に罪を告白し、人間が理屈をこねて作った救いではなく、その声の主が用意している救いを受け取ることをオススメします。
「悔い改めよ!」とか偉そうなことは、私は言えません。
私も皆さんと同じ性質を内に宿して苦闘しているからです。
しかし、選択が迫られている事実は、誰が何と言おうと変わりません。
誰でもいつか、この世と言う園の木の間から出て、神の前に立つ時が必ず来ます。
3.神の探しもの「あなた」
神はアダムエヴァが罪を犯し、逆ギレされた後、すぐに殺すこともできました。
しかし、そうはしなかったのです。
それは人間が、神の愛の対象として造られたものだからです。
愛の対象として造られたが故に、神は先ず愛を示めさねばなりませんでした。
アダムとエヴァが罪を犯し、裸であることを知った後、神は彼らに動物の皮の衣で服を作っています。
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。(創世記3章21節)
これは神が、暗に彼らの恥を覆い、罪の贖いをしたことを表しています。
この時、動物を殺すことによって、地上で初めて血が流されましたのです。
罪の贖いには、代価として血の犠牲が必要であることが示されています。
そして、罪の代価を神が用意したことに、我々への愛があるのです。
「あなたはどこにいるのか。」
神自らが、この声に応答して自ら出てこられる様に、人間の裸を覆ってくれたのです。
誰も自分に非がある人の罪を、自ら肩代わりしたりしません。
するとしたら、自分に何かメリットがある時ぐらいでしょう。
人の愛は「私のことを愛しているなら、あなたのケータイを見せてくれるよね。」みたいな、条件を提示し合う取引のようなものです。
人間という存在自体が、欠けを補う必要がある不完全なものだから当然ですね。
しかし、神の愛は無償です。
神は完全であり、全てをすでに持っているからです。
何かを引き換えに何かを要求することはありませんし、する必要がありません。
するとしたら、あなたのためです。
それゆえ神の愛は「私は先ずあなたのことを愛した。だから私を受け入れてくれ」なんです。
神はあなたのために、先ず愛を示し、救いの道を用意してくれています。
「あなたはどこにいるのか。」
実はこの呼びかけは、人を裁く為のものではなく、救いへの招きだったのです。
アダムとエヴァの時代には、皮の衣が用意されていましたが、これは来るべき救いの影であると言えます。
また、皮の衣が作られた時に流された血は、イエスキリストが十字架によって流した血の予表です。
神は約2000年前、アダムとエヴァの時と同じ様に、人類の恥と罪を覆うために血を流されました。
しかし前回と違うところがあります。
それは、自らの血を流しているということです。
「あなたはどこにいるのか。」
この声の主は、実はキリスト自身だったのです。
今は彼の血だけが、我々の裸を覆ってくれるものであり、救いを約束させるものとして示されています。
それが、神と人との血の無条件契約であり、いわゆる「新約」です。
人の考え出した言い訳という、恥部を隠す為の大きな葉っぱなど何の役にも立ちません。
神の用意した方法でなければらならいのです。
神の無償の愛は、既に十字架によって示されています。
これ以上の愛がありましょうか。
自らが痛みを負い、造り主として責任を取ることによって、あなたを探しているのです。
「あなたはどこにいるのか。」
アダムとエヴァのようにこの声を恐れず、導かれれば、必ずあなたが個人的に納得できる形で、救いへの道は開かれます。
あなたが生きている人生に、いつだってヒントがあります。
本気で求めれば、きっとあなたはあなたのために十字架に架けられた、あなたの救い主を見上げることでしょう。
迷わずにそれにすがってください。
それが正解ですから。
4.「まとめ」
「あなたはどこにいるのか。」という言葉は、神が人に何かを期待している言葉である。
「あなたはどこにいるのか。」という言葉は、神が人に弁明を要求している言葉である。
「あなたはどこにいるのか。」という言葉は、神があなた自身を探し求める言葉でもある。
「ご紹介」
1.サムネイルの絵
サムネイルの絵のタイトルは、「汝、何処にをるや」です。
エデンの園で罪を犯した後、神の声を聞いた人間と蛇のリアクションを表現しました。
人は生まれながらにして神を遠ざける性質があると、聖書は言います。
それは、自らに宿る罪を犯す性質ゆえです。
人間は禁断の果実に手を伸ばした時、自分たちが他者を遠ざけ、裁き、犯し、殺す可能性がある罪人であることを学んだのでした。
神は、恥部を隠すように自らを無罪と正当化しようとする人に対して「あなたはどこにいるのか」と今も呼びかけています。
罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。
神の声に応答するか、アダムとエヴァのように責任転嫁という木の間に隠れ、言い訳という大きな葉で罪を隠蔽し続けるか、一人一人に選択が迫られています。
tumblerにて絵を公開しています↓↓↓ よろしかったらご覧ください。
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