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【神学とは】聖書を正しく理解するうえで必要な、神学に対する基本的な理解を簡単に解説!

こんにちは、来栖川クリスです。

 

今回は「神学とは何か」をキリスト教伝道者がなるべく分かりやすく解説していきます。


本記事は、聖書を読む上で神学を参考にしたいと思っている方に特にオススメです。

 

神学の正しい理解を簡単に知ることができる内容となっておりますので、是非ご利用ください。

 

神学という概念は、人のよって定義がバラバラです。

 

神学とは何かという問い自体が、もう既に哲学的なのです。

 

ですから、一般論としての「広い意味」を確認した後、私なりに厳密に神学を定義してみたいと思います。

 

そして後に、聖書を正確に読む上で最低限必要な神学を紹介したいと思います。

 

「目次」

  1. 三位一体
  2. 信仰義認説

「ご紹介」

  1.  聖書をお求めの方へ

 

1.「神学の広義的意味」

何かの意味を考えるうえで、その言葉が持っている目的から見ていくのが分かりやすいと思います。

 

では神学の目的とは何なのか。

 

それは、聖書の内容の厳密な把握と言えるでしょう。

 

真っ当な神学のベクトルは、いかなる場合においてもその目的に収斂していきます。

 

神学の発展は、異端との戦いの中で広がってきた歴史にあります。

 

発端を遡れば、紀元1世紀、即ち聖書の記事にまで遡ることができるでしょう。

 

「神学」という言葉はもっとずっと後にできたものですが、その本質は、12使徒率いる原始教会時代からうかがえます。

 

初期の教会は、所謂「異なる福音」に悩まされていました。

 

福音とは、救い主イエスキリストの到来と救いとを告げる良い知らせのことです。

 

異なった福音とは、福音の論理的筋道から外れた偽の知らせのことを指します。

 

教会はイエス・キリストの死後10年程経ち、徐々に勢いを増し、エルサレムを拠点として多くのユダヤ人受け入れられていました。

 

他方、福音がユダヤ人以外の者、即ち聖書の言葉では「異邦人」にも多くの者に受け入れ始められた頃、事件が起こります。

 

多くのユダヤ人の中に、異邦人が徐々に教会に集い始めた時、異邦人はユダヤ人の生活基準によって生きなければならならないのかという教理的疑問が生じました。

 

ユダヤ人達は当時、旧約聖書に基づいて種々の律法を守り行っていたからです。

 

その際、1番問題にされたのは「割礼」です。

 

ユダヤ人にとって、割礼は彼らの信仰の父であるアブラハムが行ったことから、神に従うことをの絶対的な「証」でありました。

 

そして彼らの中の一派は、福音を通して神に従い、教会に交わるうえで、異邦人にも包皮の一部を切除しなければならないと要求するに至ったのです。

 

この様な立場を取るものを「割礼派」と言います。

 

割礼派が、福音に付加物として、割礼や律法の遵守を命じる様な宣教をし始めました。

 

それが所謂「異なった福音」であります。

 

ユダヤ地方で福音述べ伝える使徒達をよそに、割礼派の偽の福音が躍進し、遂にはエルサレムを越境してしまいました。

 

そしてある日、使徒パウロ率いる異邦人が中心の教会であった教会アンティオキアに、割礼派の教えが述べ伝えられ、そこで大議論が起こったのです。

 

パウロは主に異邦人への宣教を主軸に福音を述べ伝えていたので、割礼派の教えを激しく拒絶しました。

 

教会はその際、ある程度教理を形式化する必要に迫られたのです。

 

そこで12使徒率いるエルサレム教会で教会初の大会議が催され、教義が確認されました。

 

それは「異邦人の救いの為には割礼は必要ない」というものでした。

 

教会が、聖書の内容を厳密にして教理を確立した初めてのケースであると言えるでしょう。

 

故に信徒は、神学の始まりは原始教会にあると牧師から教えられることが多いと思います。

 

なるほど、確かに聖書の内容を厳密にするという定義における神学の歴史は、初期の教会にまで遡れることがわかりました。

 

しかしこの理解だけでは、唯の一般教養レベルです。

 

神学を実際に利用するのであれば、十分ではありません。

 

聖書に興味があるのであれば、神学の定義をより厳密にする必要があります。

 

2.「神学の狭義的意味」

一般的には、神学とは、聖書の厳密な把握と捉えられていると思います

 

しかし、その理解のままではあまりにも大雑把です。

 

それどころか、神学を学ぶのであれば、大いなる誤解をもたらす危険性すらあるのです。

 

聖書を神学するならば、より厳密な定義が必要になります。

 

神学を正しく理解するには、まず構造を理解せねばなりません。

 

その際、絶対に忘れてはいけないのは、神学の持つ2つの性質です。

 

それは「内容原理」と「形式原理」です。

 

内容原理とは、聖書の中心的内容によって常に反省を必要とするという原理のことです。

 

形式原理とは、聖書の体系を念頭に置き、主題に基づいて、断片的形式化を目的とする原理のことです。

 

この2つの原理は、相互補完的に神学という概念を形作っています。

 

そして、この2つの性質の内「内容原理」が常に優位になります。

 

神学は常に形式的に語られ共有されますが、真っ当なものは、聖書の中心的な内容を主軸に置いています。

 

例えば、プロテスタントの聖書論(聖書の捉え方)における神学である「聖書のみ」という宣言は、聖書の内容を優位において把握されなければ正しく理解したとは言えません。

 

「聖書のみ」は、今ではプロテスタントの「信仰義認」、「万人祭司」と並び、3大原理として、正統主義神学として取り扱われています。

 

旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻のみが唯一絶対の権威を持ち、その基準は、議論の余地が無く絶対的ものである」というプロテスタントの正当性を告白する宣言です。

 

この教義は、元々は、宗教改革時代において、カトリック教会の権威に反論する目的で定められたものでした。

 

当時のカトリックは特に、66巻の言葉の権威よりも、外典や偽典、教会伝承の権威が上回る傾向にあったので、議論を聖書に基づいたものにする必要がありました。

 

贖宥状の問題を契機に、キリスト教の救済論が混乱に陥っていたからです。

 

混乱を整理する為には、聖書の中心的な内容である「福音」に基づいて神学しなければなりません。

 

つまり「聖書のみ」は、福音という内容を圧倒的優位に置きつつ、聖書の教える救いを明確にする為に形式化された神学であったと言えるでしょう。

 

しかし、宗教改革時代に叫ばれた「聖書のみ」は、今ではほぼ全てのプロテスタント教会で掲げられている正義となっています。

 

信徒を聖書以外の書から護り、聖書の教える真理を正確にかつ適切に取り扱って礼拝を保持していく為の教義として取り扱われているのが現状の運用です。

 

プロテスタントの一派である改革派教会では「ソラ・スプリクトラ(聖書のみ)」という固有名詞にまでなり、現行聖典の絶対的権威を主張する論拠とまでなっています。

 

ただし、念を押しますが、気をつけなければならないのは、神学の内容原理の圧倒的優位性です。

 

残念ながら今の教会は、聖書の内容から「聖書のみ」に導くのではなくて、「聖書のみ」から聖書の内容に導いています。

 

形式と内容の逆転現象が起こっているということです。

 

あくまでも、「聖書のみ」という神学は、神の言葉、即ちキリストの言葉、即ち使徒達の言葉こそが、信者を支配する絶対的権威であると確認される為に、聖書の内容を優位に置いて定められた教義でした。

 

聖書の権威の前には劣るものとして、プロテスタント教会の中で確認された宗教改革時代のスローガンです。

 

しかも、カトリックを打倒する目的で付け焼き刃で宣言されたものでありました。

 

それがやがて、正統的神学として扱われ、プロテスタント教会の礼拝を守っていくための教条となったまでは、まあ良いでしょう。

 

しかし、聖書解釈の範疇にまで応用され、不毛な議論を生み出す温床となっている現状については、今を生きる信徒として疑問を抱かざるおえません。

 

今は「聖書のみ」という形式を聖書と同列以上に置き、内容を解釈してしまっているということです。

 

教会はあくまでも66巻だけが基準でなければならないと拘るあまり、「聖書の完結性」という聖書の内容には一切見られない、凝り固まった前提でもってでしか聖書を神学しなくなりました。

 

学術的で、ロジカルな聖書研究を阻害してしまっているということです。

 

聖書は全66巻からなりますが、66巻のみが聖典として認められるべきであることを裏付けるテキストは、聖書の内容自体には一切ありません。

 

事実、使徒達が支配していた原始教会時代は、66巻に加え、他に少なくとも十数余りの文書を用いていたことが学術的に確認されているのです。

 

しかも聖書のテキスト自体に、旧約偽典からの引用が確認できます(ユダ9,14)。

 

こういうと、聖書の十分性ガーとか、聖典の完結性ガーをとか更なる形式が展開され、不毛な議論に陥ることがありますが、それら主張も宗教改革時代の骨とう品であり直接的に聖書から論証不可能なものです。

 

初期教会は、聖書であれ、外典であれ、偽典であれ、預言であれ、或いは使徒達の言葉であれ、何であれ、見分けることをもって信徒の交わりの中で共有し、良いものは保持していました。

 

この様な初期教会の協調性は、今の教会に失われた文化であると言えるでしょう。

 

いつ、どこで、どのくらいの量の啓示が必要かは、神のみぞ知ることです。

 

聖書の十分性を断定的に論じることは、生きとし生けるすべての信徒の必要性を限定することであり、聖典の完結性を断定的に論じることは、神の必要性を限定することです。

 

これは明らかに神の領域に人が踏み入る越権行為ですが、、、何様なんでしょうかね。

 

ホント恐ろしくないのかと思うばかりですよ。

 

或いは、教義においては「聖書のみ」から聖典の権威が強調されるがあまり、時に「聖書に従わなければならない」とまで説かれることがあります。

 

これは一見聞こえは良いですが、聖書の内容とは反対のことを主張する教えです。

 

信者は、神に従うことにおいて全くの無能であることを聖書から教えられたうえで、教会に集められるのにも関わらず、再び「神に従わなければならない」と義務的に迫られるのです。

 

これは、信徒の信仰を正しい方向へ導くものではありません。

 

人は神に従いたくても、従えない性質を死ぬまで宿していると聖書は教えているからです。

 

この様な正統主義のあり方、即ち、神学の部をわきまえず、形式のみを強調した演繹的応用によって異形の姿になった正義は、時に「死せる正統主義」と表現されることがあります。

 

元々のロゴス(命)を失い、外形だけが独り歩きしている状態が“死んでいる”と形容されているということです。

 

神学は、聖書の内容から離れ、元々の目的を超えた扱いを受ける時、信徒にとっては猛毒となるということですね。

 

ロゴスと切り離された神学は、ゾンビの様に人を襲い、襲われた者はその神学に毒され、また人を襲うのです。

 

神学は、聖書の内容、特に中心的内容である「福音」を優位に置いて、常に下位に位置付けられなければなりません。

 

聖書に書かれていることを超えない形で、聖書の厳密な理解のためだけに用いられるべきであり、聖書と同等の権威を帯びるべきではないのです。

 

ですから、神学的混乱や、過ちが起こり得ない厳密な定義が必要です。

 

一般的に神学は、信条や教義などを包括した概念として取り扱われることが多いと思います。

 

しかし、あくまでも聖書の内容を厳密にする営みであって、形式化された結果である教義や信条までを含みません。

 

また、聖書そのものとは権威において一線を画すべきであります。

 

したがって、聖典、神学、教義とは明確に区切られるべきです。

 

そして、神学と向き合う時には、常に聖書の中心的内容によって成立までに至った論理的筋道を確認することが要求されるべきだと思います。

 

神学の暴走は、聖書の内容から神学を切り離され、一度形式化されたことを忘れ、新たな権威を持ち始めることから起こるからです。

 

激物につき、取り扱いを注意しなければなりません。

 

以上踏まえたうえで、神学は下に図の様に位置付けられるべきだと考えます。

結論としましては、神学とは、聖書の中心的内容によって常に反省が求められる、限定的命題とします。

 

少々小難しい話になってしまいましたが、神学から聖書を厳密に学ぶうえで、この知識は最低限知らなければならない予備知識、いわばワクチンです。

 

もしもこの神学の構造を理解しないままで、聖書を触れ回る者がいるならば、その人は専門的知識を持っていないゾンビですから、近づかない方が良いと思います。

 

3.「聖書を読む上で必要な神学2選」

今回は聖書を正しく理解するうえで、最低限必要な神学を2つ取り上げたいと思います。

 

神学は聖書を読むうえで必須ですが、良い神学と悪い神学とがあります。

 

良い神学を知らないと、正確に聖書を自分に適用することが出来ませんので、聖書を読む意味が無くなってしまいます。

 

悪い神学というのは、聖書の言葉を理解する目的ではなく、聖書の言葉を自らの目的の為に再利用するベクトルを持っているものです。

 

しかし、聖書や神学の知識が全くないとなると、その様な悪い神学を見抜くのは至難の業であります。

 

ですから、神学と向き合うときには、ある程度、予め知識を身に着ける必要があるでしょう。

 

これから紹介するのは、およそ2000年あまりの教会史において、正当と認められた、神学の域を超えて教義にまで昇華した神学であります。

 

成立まで長い時間をかけ、すったもんだありながらも、聖書から正しいと主張できる神学として、正統的な教会が認めているものなので安心して参考にしてください。

 

1.三位一体

三位一体とは、神とイエスの関係を論理的に把握しようと試みた神学です。

 

旧約聖書における一貫したテーマは「神は一つ」であるということです。

 

所謂「啓典の民」と言われている、ユダヤ教キリスト教イスラム教が「一神教」であるされている所以と言えるでしょう。

 

旧約聖書中で起こるほぼすべての出来事が、神の単一性を主張する為のものでした。

 

しかし、新約聖書には、神の単一性を一見否定しているかのような記事があるのです。

 

エスは聖書によれば神と扱われていますが、イエスは神を父と呼び礼拝しています(マタ26-39等)。

 

また、イエスは神と暗に自称していますが、人としての性質を保持していることを示す記事もあります(マタ8-20、マル2-10、ルカ5-24,ヨハ3-13等)。

 

果たして、完全である神が同時に不完全な人間であることはあり得るのでしょうか。

 

2世紀頃の教会は聖書の矛盾とも言える、このパラドクスを説明しようと試みました。

 

神学者達は主に二つのベクトルで三位一体を説明します。

 

「存在性」

三位一体は、神は実体において「父」「子」「聖霊」の3であり1である。また1であり3であるという性質を永遠に保有すると考える神学です。

 

聖書は、神という存在そのものが、永遠に、「父」「子」「聖霊」という互いに融通不可能な形で3つに明確に区別されるが、しかし調和しながら1を成していると教えています。

 

教会は当初、父なる神を優位に置き、子なる神であるイエスは父から由来する存在であると、なんとなく考えていました。

 

これは後に主従主義と言われますが、そうなると父なる神と子なる神が同格ではなくなるので、多神教と本質を同じくすることになることが懸念されます。

 

また神は役割に合わせて3つの姿に変えることが出来るという「モダリズム」と言う異端的な説明をするものも現れました。

 

しかし、モダリズムで神を説明しようとすると、神の3つの位格の存在性を説明することができません。

 

その様な神学的混乱から、聖書の教理を護教する為に、神は3であり、1であるという本質を、存在性というアプローチで明確にする必要が生じたわけです。

 

その結果、提唱されたのが「三位一体」でした。

 

三位一体は、聖書の救済論(人はどのようにして救われるのかを論じた分野)からよく論じられます。

 

聖書の内容を見ると、「神でなければ人は救えないが、人でなければ死ねない」という公理を導くことが可能です。

 

聖書全体を貫くこの主張を保つには、「3であり1である」という神の存在性のバランスをどうしても崩すわけにはいきません。

 

神の救いは、神が人となってこられ、人間の罪の呪いを人間として背負って死んだからこそ成立するからです。

 

神は人を救うために人間という存在になりました。

 

それは神であるがゆえに、人間を救う資格を持つ、唯一無二の存在だからです。

 

ここで、神に人間性の必要が生じました。

 

しかし、依然として神の権能を保持しながら人となるということは、別のものとして遣わされる必要があります。

 

即ち、神は遣わし、遣わされたということです。

 

ここに、父と子の区別がうかがえます。

 

また、神は自身の救いを受け入れた者の救いを成就させるために、神の聖なる霊でもって人間の内面に存在しています。

 

俗なる人間を、聖なる世界へ導くためには、聖なる存在として扱う必要が生じるからです(レビ19-2b)。

 

聖である神が、俗なる人間の内に内在するには、やはり遣わされる必要があります。

 

これが所謂「聖霊による証印(エペ1-13、2コリ1-22)」です。

 

この様に、聖であり無限である神を、神と扱いながら、有限であり、俗なる世界に生きる人間との接点を持っているとする聖書の主張から「存在論的三位一体」を論証することが可能です。

「経済性」

「三位一体」は、神は「父」「子」「聖霊」の3つの位格によって異なる役割を持っていると説明しています。

 

神は、役割によって3つに区別されているわけではありませんが、3つに区別されているという前提から神の「経済性」を論じることが出来ます。

 

人間の目線から説明すると、神が存在として異なる性質を持っているからこそ、人は神と接することが出来るということがうかがえます。

 

神は聖であり永遠です。故に俗であり有限な人間とは、本来は接点を持ちません。

 

聖と俗は決して交わらないし、無限であることと有限であることは矛盾するのが道理だからです。

 

神の性質を保ちつつ人の救いを達成する為には、人間の目から見て矛盾した救い主が必要です。

 

聖でありながら同時に俗であり、且つ無限でありながら有限である存在が、神と人間とを繋ぐ接点として仲介しなければなりません。

 

その必要に応え、神でありながら人間になったのが「イエスキリスト」です。

 

結果、キリストは有限なる人間の限界に留まったので、神による庇護を必要とするようになりました。

 

故に、依然として神としての権能を行使し、キリストを導く役割が必要でした

 

それを担ったのが「父なる神」です。

 

人類の救いや復活は、神が権能によって承認されることなしには成し得ません。

 

そして、キリストが受難を達成した後に、人類との接点を失わず、救いを実現へと導く役割が必要です。

 

その役割を担ったのが「聖霊」です。

 

ここに、それぞれに適当な役割を見出します。

 

第一位格である父なる神は、「神としての性質と力を保持しつつ、子なる神を遣わす」役割をもっています。

 

第二位格である子なる神は、父なる神から「人間の身代わりに裁かれる」役割を持って被造世界に遣わされました。

 

そして、「子なる神と父なる神の力を被造世界で実行する」役割を持っているのが第三位格の聖霊であると言えるでしょう。

 

これが、キリスト教の救済論から見た神の経済性です。

 

それぞれが違う役割を持ちながら、互いに能動的に「人類の救い」という一つの目的でもって調和しているのがうかがえます。

 

三位一体の経済性に見られる役割分担は、すべて愛によるものです。

 

信徒はその愛の交わりの中に招かれています。

 

つまり、1であり、3であるという聖書の論理的矛盾は、「愛」という超論理で初めて理解可能であると言えます。

 

 

2.信仰義認説

信仰義認とは、人が救われる為の条件を論理的に把握しようと試みた神学です。

 

この神学も、カトリック教会への反論から生じたものあります。

 

プロテスタントプロテスタント(抗議)たる所以となっている神学と言えるでしょう。

 

12使徒率いる初期教会は「異なった福音」の登場によって、「救いは行為によらない」ことを確認しましたが、これは信仰義認をネガティブに言い表した宣言であります。

 

故に、信仰義認の概念自体は初期教会からあったと言えるでしょう。

 

一方、中世の教会は、お寺の修繕費問題の解決案として「お札を買えば救われる」と贖宥状を触れ回っていました。

 

これに激しく抗議したのが宗教改革マルティン・ルターです。

 

ルターは使徒達とは逆に、ポジティブに「人は〜によって救われる」と論じています。

 

彼は2つの側面でキリスト教の救いの条件を神学しました。

「恵み」

信仰義認説において、人は「恵みによって救われる」と説かれています。

 

ここでいう「恵み」とは、救いのすべてを神に依存するという意味での恵みであり、他力救済を指し示す概念です。

 

聖書の救いとは、始原も、過程も、成就も全て神に依存すると教えています。

 

当時カトリックの説いていた救いは、人間の自力を要求する類いのものであり、救済の為に人間の努力を条件とするもので、宗教改革以前から教えられていました。

 

教会内に潜在的にあった自力救済の考え方が、教皇の権威によって発行された贖宥状の出現によって顕在化したということですね。

 

対してルターは、主にローマ人への手紙から神の「恵み」を強調しましたが、その前に、人間は全人的に堕落していると論じています。

 

「「罪」とは、聖書においては、からだが行う外的な行いだけのことではない。外的な行いへと促し、動かすものすべて、すなわち、心の底とその全力とを指す。だから、「罪を行う」ということばは、人間全人が罪に堕ち、罪を行うという意味でなければならない」(ローマの信徒への手紙序文)」

 

彼が、全人的堕落を信仰義認の前提としているということがわかると思います。

 

要は人は心において堕落し、行いの動機自体が汚れているので、誰も神の要求に達しえないということですね。

 

自力で神の要求に達し得ないということは、自力では神の裁きは免れません。

 

自力で神の裁きを免れないということは、自力救済は不可能であるということであります。

 

聖書の救いは、始原的に言うのであれば、神に罪と定められないことだからです。

 

つまり、神の「恵み」に寄り頼むほか救済の道は用意されていないということになります。

 

故にルターは、恵みが、神に義と認められる条件であるという前提に立っているわけです。

 

「だからこそ、恵みは、私たちが神の前で完全、十全に義と認めらてるに十分な働きをなす。~このようにして、聖パウロが第七章ではまだひとりの罪人としてのおのれを非難しながら、第八章では、賜物や霊が(人間において)不完全であっても、キリストにある者は罪に定められないと言っているのを、あなたは理解できよう(ローマの信徒への手紙序文)。」

「信仰」

信仰義認説において、人は信仰によって救われると説かれています。

 

これはカトリックの行いによって人は救いを得るという「行為義認」とは反対の神学です。

 

今ほどではありませんが、16世紀当時のローマカトリックは、「善行」をことさら強調していましたが、ルターは「信仰」を強調しました。

 

そして、当時の教会の善い行いのあり方を否定し、神に認められる行いは、如何なる場合においても信仰に基づくものであると論じました。

 

「祈祷、断食、寄進など、あれやこれやの行いを行って、世人の前には一見善い生活を送っている人々がたくさんいる。けれども、そのように彼らが行っていることに、神に喜ばれているという確信がはたしてあるのかと尋ねるならば、彼らは、いや、自分たちにはわからないとか、疑問だとか答える。~これらの行いは、すべて信仰の外で行われている。だから、それらの行いは無価値であり全くの死物である(善い行いについて)。」

 

聖書的根拠としては、「信仰に基づいていないことは、すべて罪なのです(ロマ14-23)」を挙げています。

 

彼は、信仰に基づかない行いはいかなる行動も無価値であり、信仰に基づく行動は「藁くず一本を拾い上げるような些細な事柄であっても、その行いは善い行いである」としました。

 

その上で、人が神に義と認められ救われるのも、善行の様な行為ではなく「信仰」によるのだと主張したのです。

 

「聖パウロは第三章(20節)でこの事を意味して「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」と言っている。だから、行いをもって恵みへの備えをすると教える論争家や詭弁家どもは誘惑者であることを、あなたは今や分かるであろう。~だが聖霊は、彼(パウロ)がまえがきで言っているように、イエスキリストを信じる信仰において、その信仰とをとおしてのみしか与えられない。~ここからして、信仰のみが義とし、律法を充たすこととなる(ローマの信徒への手紙序文)。」

 

さて、今回紹介した2つの神学は、聖書の最も基本的な主張を厳密にしたものであります。

 

故に聖書を読むうえでの予備知識的な神学であると言えるので、小難しいですが覚えておいて損はないと思います。

 

4.「まとめ」  

「広い意味での神学」とは、聖書の厳密な把握である

「狭い意味での神学」は、教義などの形式とは区別されるものである。

「三位一体」とは、愛と言う超論理でもって始めて論証可能な神の本質を示した神学である。

「信仰義認」とは、神の恵みの業に寄り頼むことのみが唯一の救いであることを論証した神学である。

 

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聖書の名言 「あなたはどこにいるのか。」(創世記3章9節)

探しものは何ですか♪  見つけにくいものですか♪

 

ど〜も、来栖川クリスです🕶。

 

今回は聖書の名言である「あなたはどこにいるのか。」を、キリスト教伝道者が分かりやすく解説していきます。


本記事は、聖書のことばにすこしだけ触れてみたいと思っておられる方にオススメです。

 

人間が悪いことをしたときに時に抱く「後ろめたさの正体」とは何かを考える良い機会となると思いますので、是非ご利用ください。

 

先ず「あなたはどこにいるのか。」という言葉を簡単に解説した後に、この言葉が皆様にどのように関係しているかを見ていきたいと思います。

 

「目次」

  1. 「あなたはどこにいるのか。」の解説
  2. 神の探しもの「罪の告白」
  3. 神の探しもの「あなた」
  4. まとめ

「ご紹介」

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1.「あなたはどこにいるのか。」の解説

この言葉は、神がアダムとエヴァに向けて発したものです。

 

彼らが、いわゆる禁断の果実に手を伸ばした後、エデンの園の木の間に隠れている際に投げかけた言葉で、非常に深い意味が込められています。

 

ある日エヴァは、蛇にそそのかされ、取ってはいけないと言われていた木の実の魅力に魅入られてしまいました。

 

蛇が、神がその実を食べてはいけないと禁じたのは、人が神の如き知識を手に入れ、神の如き主体性を持ってしまうからだと告げたからです。

 

エヴァは、その実をとって食べ、夫アダムにも勧めました。

 

結果、アダムとエヴァが最初に得た知識は、自らが裸であることでした。

 

こうして、二人に目は開かれ、自分たちがであることを知った。(創世記3章7節)

 

この「裸」という言葉は、原語では「エルミム」であり「」というニュアンスを含みます。

 

神から教えられたわけではなく、人間が、主体的に自らが恥ずべき存在であることを知ったのです。

 

そして、目の前にいる人にも恥ずべきものがあることを知り、互いの局部を葉で隠し、互いを拒絶してしまいました。

 

人が人のアラを見つけて拒絶することは、人に対する罪の始まりであると言えます。

 

誹謗、中傷、ひいては人殺しに至るまでを引き起こす危険な性質が、内に宿ってしまったことを、この時人間は知ってしまったのです。

 

理想的であったアダムとエヴァの関係は、罪によって歪なものと変わってしまいました。

 

しかし問題なのは、ここから。

 

彼らが労働を終え、いつも神と対話している時間に差し掛かり、園に響き渡る神の接近の音を察知すると、なんと木の間に身を隠したのです。

 

神に対しての恐れからの行動で、人間に生じた初めての恐怖でした。

 

そんな中、「あなたはどこにいるのか。」と神は人に仰せられたのです。

 

聖書の神のキャラ設定は、いわゆる「ジ・オールマイティ」即ち「全知全能」です。

 

もちろん、アダムとエヴァが禁断の果実に手を伸ばし、隠れていることも知っています。

 

知った上で、人間を探し、質問しました。

 

神はアダムとエヴァに弁明の余地を残したということです。

 

しかし、彼らから出たのは責任転嫁と逆ギレの言葉でした。

 

人類の代表であったアダムは、助け手のエヴァに責任をなすり付け、彼女を近くに置いた神のせいにしたのです。

 

一方でエヴァは、そそのかした蛇に罪をなすり付けました。

 

もちろん、神の想定内の回答でしたが、期待していたものとは違ったのです。

 

神が期待していたものとは一体何なのか、その点に、今を生きる私達に関わることがあります。

 

「あなたはどこにいるのか。」

 

最初の人間である、アダムとエヴァに発せられたこの言葉は、その子孫であり、同じ性質を受け継ぐ我々にも同じ様に訴えかけていると言えます。

 

2.神の探しもの「罪の告白」

神がアダムとエヴァに期待していたのは、罪の告白でした。

 

状況や他人に原因を求めるのではなく、先ず自分の選択が間違っていたことを認めなければ正直とは言えません。

 

神が彼らの居場所がわかっていながら、あえて人を探したのは、正直な罪の告白を引き出す為だったのです。

 

そして今も、同じように探しておられます。

 

何故神は、わざわざ罪の告白を引き出そうとしているのでしょうか。

 

それは、人が死んでしまっているからです。

 

聖書において「死」は、第一義的に「神との分離」を意味します。

 

アダムとエヴァが神を避けて隠れたのは、人間が神と切り離された状態の表れなのです。

 

そして同時に、自らが罪人であることの証拠でもあります。

 

車を運転している時に、パトカーが横切ると思わずザワザワして隠れたくなる時ありますよね。

 

スピード違反してしまってるかも。

 

あれ?シートベルトしてるっけ?

 

様々頭をよぎりますが、これは権限を帯びた者の権威に対する恐れから来る感情でしょう。

 

同じ様にアダムとエヴァも神との約束を反故にしたことに後ろめたさを感じ、裁きの予感を感じたのでした。

 

自らの主権者に対する権能への恐怖です。

 

人は誰に教えられなくても、人を殺してはならないことを知っています。

 

何故か考えたことはありますか?

 

現代に生きる我々は、何となく法律で決まっているからとか、警察に捕まっちゃうからとか考えがちです。

 

しかしこの感覚は、世界がまだ無秩序な時からあるものです。

 

或いは、人殺し以外にも、人は何か悪いことをした時に何か後ろめたさを感じます。

 

聖書は、人間の後ろめたさを感じる様な感覚は、本質的に神を恐れていることの表れであると説明しています。

 

彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明しあったりさえするのです。(ローマ人への手紙1章15節)

 

ここでいう「律法」とは、神が人に定めた要求のことです。

 

エデンの園での話で例えると、「その実をとって食べてはならない」という神の要求にあたります。

 

つまり、たとい神を知らなくても、人は神の裁きの座の前に立たされることを予感しているということです。

 

因みに、この様に人に備わっている神を感じる力を、「霊感」と言いいます。

 

自分を縛り、裁くものが全くない状態では、何をしても後ろめたさを感じることはないでしょう。

 

しかし人は、誰にも見られてなくても、誰にも知られてなくても、後ろめたさを感じるのです。

 

おおよそ、宗教と呼ばれるものは、この後ろめたさを「罪」と呼んでいます。

 

そして、生きている間に犯す様々な罪を、死後の世界に行くまでに、どうするかを考えるわけです。

 

つまり罪をどのように処理するかが教理の最大の関心事になっているということです。

 

ある宗教は、ある特定の行動を取れば罪から救われるとします。

 

ある宗教は、ある特定の知識を持てば罪から救われるとしています。

 

またある宗教は、人が罪を犯すのは修練の為であり、生まれ変わりを繰り返し、罪を犯さずに善行してポイントを稼ぐと、やがて救われるとしています。

 

世界中の宗教が、打ち合わせてなくても、同じように巧みな論法で罪を処理しようとしていることがわかります。

 

またそれどころか、人は死後の世界に超越者の存在を認め、それに赦しを請うことさえするのです。

 

どのような文化的背景、国語にあろうとも、人間は同じ様に神を感じていることですね。

 

それは無宗教と主張している人も、何も変わりません。

 

もしあなたも後ろめたさを感じているなら、アダムと同じ様に罪の性質を宿してしまったことを認識したことを、正に追体験しているのです。

 

アダムと同じ経験をしているならば、聖書によれば、あなたは心の中で神を感じていることになります。

 

神を感じているならば、神の存在を認識しているということですから、自らの行いの申し開きをしなければなりません。

 

「あなたはどこにいるのか。」

 

その声の主の怒りから免れる方法を一刻も早く探さねばなりません。

 

アダムとエヴァの様に自らの恥部を隠蔽し、開き直り、逆ギレするつもりですか。

 

或いは、その声を聞いても無視し続けるつもりですか。

 

願わくば、神に正直に罪を告白し、人間が理屈をこねて作った救いではなく、その声の主が用意している救いを受け取ることをオススメします。

 

「悔い改めよ!」とか偉そうなことは、私は言えません。

 

私も皆さんと同じ性質を内に宿して苦闘しているからです。

 

しかし、選択が迫られている事実は、誰が何と言おうと変わりません。

 

誰でもいつか、この世と言う園の木の間から出て、神の前に立つ時が必ず来ます。

 

3.神の探しもの「あなた」

神はアダムエヴァが罪を犯し、逆ギレされた後、すぐに殺すこともできました。

 

しかし、そうはしなかったのです。

 

それは人間が、神の愛の対象として造られたものだからです。

 

愛の対象として造られたが故に、神は先ず愛を示めさねばなりませんでした。

 

アダムとエヴァが罪を犯し、裸であることを知った後、神は彼らに動物の皮の衣で服を作っています。

 

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。(創世記3章21節)

 

これは神が、暗に彼らの恥を覆い、罪の贖いをしたことを表しています。

 

この時、動物を殺すことによって、地上で初めて血が流されましたのです。

 

罪の贖いには、代価として血の犠牲が必要であることが示されています。

 

そして、罪の代価を神が用意したことに、我々への愛があるのです。

 

「あなたはどこにいるのか。」

 

神自らが、この声に応答して自ら出てこられる様に、人間の裸を覆ってくれたのです。

 

誰も自分に非がある人の罪を、自ら肩代わりしたりしません。

 

するとしたら、自分に何かメリットがある時ぐらいでしょう。

 

人の愛は「私のことを愛しているなら、あなたのケータイを見せてくれるよね。」みたいな、条件を提示し合う取引のようなものです。

 

人間という存在自体が、欠けを補う必要がある不完全なものだから当然ですね。

 

しかし、神の愛は無償です。

 

神は完全であり、全てをすでに持っているからです。

 

何かを引き換えに何かを要求することはありませんし、する必要がありません。

 

するとしたら、あなたのためです。

 

それゆえ神の愛は「私は先ずあなたのことを愛した。だから私を受け入れてくれ」なんです。

 

神はあなたのために、先ず愛を示し、救いの道を用意してくれています。

 

「あなたはどこにいるのか。」

 

実はこの呼びかけは、人を裁く為のものではなく、救いへの招きだったのです。

 

アダムとエヴァの時代には、皮の衣が用意されていましたが、これは来るべき救いの影であると言えます。

 

また、皮の衣が作られた時に流された血は、イエスキリストが十字架によって流した血の予表です。

 

神は約2000年前、アダムとエヴァの時と同じ様に、人類の恥と罪を覆うために血を流されました。

 

しかし前回と違うところがあります。

 

それは、自らの血を流しているということです。

 

「あなたはどこにいるのか。」

 

この声の主は、実はキリスト自身だったのです。

 

今は彼の血だけが、我々の裸を覆ってくれるものであり、救いを約束させるものとして示されています。

 

それが、神と人との血の無条件契約であり、いわゆる「新約」です。

 

人の考え出した言い訳という、恥部を隠す為の大きな葉っぱなど何の役にも立ちません。

 

神の用意した方法でなければらならいのです。

 

神の無償の愛は、既に十字架によって示されています。

 

これ以上の愛がありましょうか。

 

自らが痛みを負い、造り主として責任を取ることによって、あなたを探しているのです。

 

「あなたはどこにいるのか。」

 

アダムとエヴァのようにこの声を恐れず、導かれれば、必ずあなたが個人的に納得できる形で、救いへの道は開かれます。

 

あなたが生きている人生に、いつだってヒントがあります。

 

本気で求めれば、きっとあなたはあなたのために十字架に架けられた、あなたの救い主を見上げることでしょう。

 

迷わずにそれにすがってください。

 

それが正解ですから。

 

4.「まとめ」  

「あなたはどこにいるのか。」という言葉は、神が人に何かを期待している言葉である。

「あなたはどこにいるのか。」という言葉は、神が人に弁明を要求している言葉である。

「あなたはどこにいるのか。」という言葉は、神があなた自身を探し求める言葉でもある。

 

「ご紹介」

1.サムネイルの絵

「汝、何処にをるや」(創世記3章9節)

サムネイルの絵のタイトルは、「汝、何処にをるや」です。

 

エデンの園で罪を犯した後、神の声を聞いた人間と蛇のリアクションを表現しました。

 

人は生まれながらにして神を遠ざける性質があると、聖書は言います。

 

それは、自らに宿る罪を犯す性質ゆえです。

 

人間は禁断の果実に手を伸ばした時、自分たちが他者を遠ざけ、裁き、犯し、殺す可能性がある罪人であることを学んだのでした。

 

神は、恥部を隠すように自らを無罪と正当化しようとする人に対して「あなたはどこにいるのか」と今も呼びかけています。

 

罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。

 

神の声に応答するか、アダムとエヴァのように責任転嫁という木の間に隠れ、言い訳という大きな葉で罪を隠蔽し続けるか、一人一人に選択が迫られています。

 

 

tumblerにて絵を公開しています↓↓↓ よろしかったらご覧ください。

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雑記「暑中見舞い」

こんにちは。来栖川クリスです。

 

暑さ厳しい中、いかがお過ごしですか。

 

ネット界隈では隣国の女性DJの、日本でのわいせつ事件がホットなようですね。

 

日本は痴漢大国だー。

 

いやいやほかの国でも触られてるー。

 

そんなの関係ない。触った人が悪い。

 

いや、きわどい服装で誘ってるだろ。

 

日本人として素直に謝るべきだ。

 

いや、あいつは反日で当たり屋だぞ?

 

韓国の皆さんごめんなさい。日本人を代表して謝ります。

 

日本を代表して謝るってどういうことだよwwwwwww。

 

正面から口説きにいけ。同じオトコとしてダサい。

 

↑↑問題の軸をずらして自分がもてようとしてるだけ。一番キモイ

 

男は女性の服装に口出しするな。女性蔑視だ!

 

主催者が悪い。そもそも客との距離が近すぎる。

 

柵を造っておきながら、何故柵に近づくのか。

 

など様々な意見がありましたが、総じて言えるのは、皆他人の動機を勝手に想像して批判しているという事でしょう。

 

仮想の敵をつくり上げて悪人認定し、シャドーボクシングしてるってことです。

 

因みに聖書では、それは人を裁くことで、人には許されていないこととされています。

 

「人を裁くな。裁かれないためである。(マタイの福音書7章1節)」

 

誰かを裁いて回る時に、絶対に自分のことを棚に上げているわけですからね(*_*;)

 

結局は当事者同士の問題ですから、社会の裁き主である裁判官に任せましょうよ。

 

世間がヤイヤヤイヤいってる中、わたしは釣りに出かけたんですよね。

 

適当な竿とリールで、今回はソフトルアーをジグヘッドにつけての釣行でした。

 

わたしは魚はさばけないので、我が家のさばき主、おばあちゃんにさばいてもらいました。

カマスです。ちょっと小さかったけど塩焼きにして食べました。

 

身は淡白でクセが無くおいしかったです。

多分アイゴっていう魚です。

大きくて一見おいしそうですが、ヒレに毒があります。

 

くっさい魚として知られています。

 

実際めちゃめちゃ臭かったので捨てました。

 

ご紹介

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【性教育】BIBLE SEX EDUCATION ~恋愛篇~


やあ、僕はクリス。

 

バイブルセックスセラピストさ。

 

今回はバイブルから「恋愛」とはどうあるべきかを考えてみたいと思うんだ。


バイブルが教える恋愛とは何かを知る良い機会になるといいんだけどね。

 

聖書の恋愛観に基づいて、祝された恋愛とは何かを一緒に探求しようと思う。

   

「目次」

  1. 「恋心の正体」
  2. 「恋愛の目的」
  3. 「恋は愛には変わらない」
  4. まとめ

「ご紹介」

  1.  聖書をお求めの方へ

 

1.「恋心の正体」

実はバイブルって、「恋心」にはネガティブな認識を示してるんだ。

 

バイブルの中ではヘブライ語「タシュカー」って言う言葉で表現されてることが多いんだけど、全て消極的な意味で使われているんだよね。

 

一例を挙げると、アダムのガールフレンドのエヴァは、取るなって言われてた禁断の木の実を取っちゃった時に、神にこう怒られてる。

 

女にはこう言われた。「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。また、あなたは夫を恋慕うが、彼はあなたを支配することになる。」(創世記3章16節)

 

アダムとエヴァは、神の作品である人類を代表してエデンの園を任されていたんだけど、定められた法を破り、罪を犯し、堕落した。

 

結果、人類代表として人類全体にペナルティを招いてしまったんだ。

 

神のお叱りの前半は、禁断の果実を手にしてしまった罰として、生理痛や陣痛などの女性特有の身体的苦しみがより激しくなってしまったことを表している。

 

なかなかヘビーだろ。

 

でも問題なのは後半、バイブルは、女性は男性を求めることによって得る肉体的な痛みを経験しても尚、男を欲すると言ってるんだ。

 

その上堕落してしまった結果、精神的に、女性として男性を際限なく求める性質をも宿してしまったことが神によってつまびらかにされている。

 

しかし男は、女を暴力的に支配するとある。

 

男と女の性を絶妙に言い当てているよね。

 

つまり、バイブルは「恋心」を「貪欲みたいな性質の感情」と、位置付けているってことさ。

 

誰か、あるいは何かに恋に落ちてしまったら、人はその感情をコントロールしなきゃいけない。

 

これは人間に課せられているミッションと言えるだろう。

 

でも僕はママの晩ごはんに恋しちゃって10kg肥えちゃったんだけどね(HA〜HA)。

 

2.「恋愛の目的」

よくいるだろ?私は恋愛マスターだってバーの端っこで座ってるダサい売れ残り系女子。

 

こういう奴らが言いたいことって、恋愛の数は「経験」だってこと。

 

男で例えたら不良自慢みたいなもんさ。

 

自分の失敗を経験だって言い張ってるんだ。

 

全く傑作だよね。

 

目的が明確になってない恋愛ほど失敗を招くものはない。

 

言い換えれば、恋愛が目的になってる恋愛は失敗する傾向にある。

 

バイブルが恋愛を描くときは、必ず「婚約関係の中」なんだよ。

 

つまりバイブルは、恋愛とはいかなる場合においても「結婚が目的」であるとしてるってことさ。

 

というか、結婚を前提にしない恋愛って互いを貪る為の口実に過ぎないしね。

 

ある人は相手の金を狙って、ある人は相手の体を狙って貪る様に恋愛する。

 

そして食い尽くして自分に旨みがなくなったら適当な理由をつけて別れるのさ。

 

HA〜やれやれだよ。

 

現代人は恋愛を誤解してる。

 

いや、恋愛の意味すら自分で決めてるのかも。

 

まあ今は個人主義の時代。

 

「我思う、我故に我有り」だからね。

 

誰も普遍的な意味を探究しようとはしないんだろう。

 

恋愛観が人それぞれになってしまってるせいで、異性間の認識にズレが生じてしまってるんだ。

 

だから恋愛におけるコミュニケーションがうまくいかないのさ。

 

バイブルの恋愛は現代人のそれとは全く違う。

 

先ず「結婚」と言う契約を交わして、互いにある程度ルールを設けてから秩序ある恋愛をしてるんだ。

 

恋愛する前に、互いの落としどころをキチンと備えているってことだね。

 

え?そんなものなくても愛が有れば乗り切れるって?

 

HA〜HA、そんなものは淡い期待さ。

 

それは君の星の数ほどの恋愛経験が物語ってるよね。

 

人間とは不完全な生きものだ。

 

だからこそ恋心や愛みたいなものだけでなく、知性や理性も総動員しなきゃね。

 

アダムの恋愛は結婚から始まってる。

 

先ずエヴァにプロポーズしてから、SEXして子供を儲けているのさ。

 

人類最初の男は正に男として筋を通してるんだ。

 

バイブルの中で恋愛と言ったらイスラエルの賢王ソロモン。

 

ソロモンの恋愛は、まるでロミオとジュリエットさ。

 

王であるソロモンが、平民の女に恋することから始まって、先ず婚約し、様々な障害に直面しながらも互いを励まして一緒に乗り越えている。

 

バイブルはソロモンの結婚を前提とした恋物語を通して、健全な恋愛の祝福を教えてるんだ。

 

そんなラブストーリーが詩の形式書いてあるのが、バイブルの中の詩歌集である「雅歌」。

 

ユダヤ人は30までこの書を読めないみたいだけど、健全なエロスを感じたい女子にはオススメだよ。

 

台本がある恋愛リアリティショーよりよっぽどマシさ。

 

健全な恋愛は、いつも婚約関係の中で行われるものだ。

 

相手あっての恋愛だからね、そもそも本当にリスペクトしてるなら筋を通そうとするだろ。

 

恋愛の数を誇って、思い出と呼んで美化するのは簡単。

 

だけど、失敗して相手の時間を奪い、他人の人生に傷をつけ、ぶち壊してからじゃあ遅いんだ。

 

不健全な恋愛は、最終的には自分だけでなく他人も不幸にすることを覚えなきゃね。

 

結婚と聞いて、重いとか言って1ミリでも尻込みする様ならまだその人のことが「好き」じゃないってことさ。

 

まあ、一生teen agerみたいなしょんべん臭い恋愛がご所望なら、別にいいけどさ。

 

でも性病にはくれぐれも気をつけてくれよ(HA〜HA)。

 

 

3.「恋は愛には変わらない」

良い恋愛は必ず互いに愛を前提としている。

 

恋心を絆の頼みの綱とはしないんだ。

 

そんなモンは時間が経てば消えて無くなっちゃうからね。

 

でも、恋することによって初めて相手を愛することが出来るんじゃないの?って言う人いるよね。

 

NO〜バカ言っちゃあいけないよ。

 

恋心は恋心、愛は初めから愛な.の.さ。

 

恋心は何かを好きになって求める性質そのものだから、求めるモノが手に入ったら満たされる。

 

突き詰めても賢者モードになるだけなんだよ。

恋愛に狂ってた女が、ペットを飼うと男に興味なくなる現象あるだろ?

 

アレって男に求めていたものがペットで満たされたってことだよね。

 

それが指し示すのは、今まで恋愛だと思ってたものが、実のところそうじゃなかったってことさ。

 

恋愛感情は人に対してしか持てない感情だからね。

 

結局は、自分の虚無感を何かで満たしたかっただけってこと。

 

だから自分は本当に恋愛がしたいのか、あるいは恋愛に似た何かがしたいのかは、誰かを不幸にする前にチェックすべきだね。 

 

対して良い恋愛は、必ず互いが信頼しあっているよ。

 

そして必ず相手に対して尊敬と覚悟を見せる所から始まってる。

 

「あなたの為なら人生全てを失っても良い。」

 

これが愛に基づいた言葉じゃなくてなんなのさ。

 

また、この愛に応答出来るのは愛だけなんだよ。

 

人一の人間の人生を背負うかも知れないのだから、自分の人生を賭けようとするのは当然だよね?

 

この双方の覚悟を形にしようとした時に、結婚のニ文字が出てこないわけがない。

 

付き合うという四文字で、互いに責任を取り合わない状態で、ABC最後までいっちまうなんて正常だと思うか?

 

イ〜ヤ異常だ、極めて俗悪な恋愛さ。

 

そんな恋愛が許されるのはせいぜい10代まで。

 

自由恋愛なんていう言葉に踊らされない方が良い。

 

現代人は恋愛に過度な期待をしていると思う。

 

ただ恋愛は良いものだ。

 

恋心を完全にコントロールできればね。

 

でもそんな奴はこの世にいない。

 

だから、先ず自分や相手に対して過度に期待する事をやめて、明確に目的や基準を設けた上で、互いがその責任を全うすることが必要なんだ。

 

なんか厳しいなと少しでも思ったらならば、キミは恋愛には向いてないってこと。

 

恋愛にも向き不向きがある。

 

互いの責任を全うし、障害を乗り換えたカップルだけが健全な恋愛の祝福を味わうことが許される。

 

周りが恋愛してるからって、自分も恋愛する必要なんて全くない。

 

恋愛以外にもこの世には沢山の祝福がある。

 

恋愛に向いてない人間が、自分の為に無責任に子供まで作って、離婚して子供の人生に悪影響を及ぼうそうもんならもう笑えない。

 

僕は母子家庭に育ったから、片親の苦労とその子供としての苦労が身に染みて分かるよ。

 

そんな僕が一つだけ言っておくが、金があれば離婚しても良いなんて思うなよ、だ。

 

父親がいないこと、母親がいないことは子供の発育に明らかに悪影響を及ぼす。

 

恋愛はあなただけで成り立たないし、あなただけのものではないのさ。

 

恋愛ってみんなが思うよりずっとハードルが高いんだね。

 

それじゃ、bye❤

 

4.「まとめ」  

恋心の正体は、貪欲に似た感情である

恋愛の目的は、恋愛ではなく結婚である

恋心は恋心、愛は初めから愛である

 

「ご紹介」

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『都市伝説』聖書から「やりすぎ都市伝説2023夏」を批評する。

こんにちは、来栖川クリスです。

 

いや~今回も来たね~やりすぎ都市伝説。

 

今回は2023年7月21日放送の「やりすぎ都市伝説2023夏」について、キリスト教伝道者が、聖書からしっかりと批評していくよ!!


いい?この記事は、やりすぎ都市伝説2023夏の中で触れられた聖書に関連する説は、本当のところどうなのかを知りたい人必見だからね。

 

だから放送をチェックしてない人は、予め見とけってこと!!


聖書から、都市伝説の真偽を、簡単に知ることができる内容になっているから。

 

いいね?

 

目次

  1. 部分霊感説
  2. 霊肉二元論
  3. キリスト仮現説
  4. グノーシス主義
  1. バプテスマのヨハネの洗礼について
  2. キリストの聖杯について
  3. 死海文書3Q15の解釈
  4. キリストの復活について
  5. AIジーザスについて

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都市伝説テラ―の聖書観

遂に!やりすぎのカメラが聖書の舞台にやってきたよね。

 

今回はヨルダンからトルコまでを巡ったよ。

 

情熱が満ちに満ち溢れていると言わざるおえないよね!

 

でもいい?

 

今回の都市伝説の是非を判断する為には、先ず語り手の主張を理解しなきゃダメだから!

 

関暁夫氏は、聖書の言葉と交えて都市伝説を語っていたけど、誰かが聖書を語るのを見たら、先ずその人の聖書に対する見方を確認しなきゃいけないよ。

 

じゃないとイマイチ何を言ってんのか分からないからね。

 

それっぽい話に騙されないこと。

 

いいね?

 

それじゃあ、一緒に見ていくよ。

 

1.部分霊感説

先ず聖書の話を聞く時に確認しなきゃいけないのは、語り手が、聖書の内容をどの程度信じているかってこと!

 

ズバリ言うと、やりすぎ都市伝説の語り部関暁夫氏は聖書の言葉の全ては信じていないからね。

 

ただ、話をよく聞いてみると、内容の一部は信じていて、強い関心を示していることが分かるから。

 

この様な聖書に対する見方、それが「部分霊感説」!!

 

「部分霊感説」とは、聖書の霊感論の一つで、聖書の宗教的な事柄についてのみ霊感が及んでおり、科学や歴史の分野では聖書に誤りがあるとする説である(ナレーション)。

 

「霊感」っていう微妙な言葉が出てきたけど、要は、聖書の信じたい言葉は神の啓示として信じて、それ以外は信じないという立場だっていうこと!

 

元々は、聖書の宗教的部分のみを受け入れて、奇跡などの非科学的な部分は、そのまま現象を説明しているのではなく、単なる教示的な意味の誇張だとする、キリスト教徒の聖書の見方に適用される神学用語なんだよ。

 

実は聖書観って様々あるんだけどさ、関暁夫氏の聖書観は、正にコレに該当するんだよね。

 

この「部分霊感説」に基づいて都市伝説が展開されているからね。

 

つまり、自らの説を肉付けする為に聖書の言葉を、新聞記事から切り取った怪文書みたいに切り貼りしてるってことだから!

 

いい?

 

コレは頭に入れておいてね。

 

2.霊肉二元論

聖書を見ていく上で、この世界の森羅万象をどの様に捉えているのかはメチャクチャ重要なの。

 

関暁夫氏の主張は、一貫して現実世界よりも、精神世界に何かを見出す様に誘導している様に見えるよね。

 

それは、物質は悪、霊(精神的なものも含む)は善であるという考え方が関係しているんだよ。

 

いい?

 

その考え方こそが「霊肉二元論」!!

 

「霊肉二元論」とは、この世界を霊と肉(物質)からなる背反する原理によって構成されていると考える哲学的思想である(ナレーション)。

 

この考え方は、紀元前1世紀頃ギリシャ・ローマ世界で、圧政に苦しみ、物が中々手に入らない民衆の間で、現実逃避する為に流行ったもので、結構昔からある考え方なの。

 

精神世界に幸福を求めていく「霊肉二元論」は、宗教的要素がふんだんに盛り込まれている聖書と非常に、ある意味では相性が良いんだよね。

 

そもそも聖書って、基本は宗教書ではなくて、考古学的に正確な歴史書なの。

 

ただ、単なる歴史書というわけではなくて、人類歴史にどの様な神の働きがあったかを一貫して記しているんだよね。

 

そこに聖書の宗教性があるわけ。

 

人類歴史に介入した神が、人に何を求めているのかが教えられているんだよ。

 

いい?

 

聖書は人類歴史がどの様に運ばれているのかという、外面的なことを示すのと同時に、示された歴史の過去、現在、そして未来を踏まえて、貴方はどう生きるのかを問うているわけ!

 

つまり最終的には人間の内面へと向かうんだよね。

 

要は、ある意味で聖書は人に精神的な高みを目指すことを要求する書だと言えるの!

 

その点に、霊肉二元論と聖書のシンパシーがあるんだよね。

 

今回の放送を見る限り、やりすぎ都市伝説は、聖書の言葉を精神世界への導入にしてるってことがよく分かるでしょ。

 

目に見える現実を否定して、人間はサイバー空間に向かうとか、宇宙に進出するみたいな話を、聖書の出来事や教えと関連付けていたよね。

 

あくまでも、現実世界の延長線上にではなくて、今目の前にない精神世界に理想郷を求めているってこと。

 

つまりは、霊肉二元論を現代に適用させて、様々な宗教や神話、或いは聖書から、それっぽいことを言ってるだけなんだよね。

 

エンタメだからと言って惑わされない様に気を付けなきゃダメだからね!

 

3.キリスト仮現説

聖書の話をする上で、キリストっていう存在をどの様に捉えるのかは凄く重要なことなんだよね。

 

やりすぎ都市伝説って、何かとキリストにこだわっているけど、総じて言えるのはキリストを精神概念化して語る傾向にあるってこと!

 

それは、実はキリストの身体はあくまでも現実世界で働きかける為の器にすぎなくて、本質は霊にあるっていう理解の現れなんだよね。

 

キリストを肉体は仮の姿であると考える説、コレこそが「キリスト仮現説」!!

「キリスト仮現説」とは、キリストの人性、身体性を否定し、イエスは仮に人間の姿をとっただけに過ぎないとする神学的立場である(ナレーション)。

 

本来キリスト仮現説は、イエス・キリストが神であることを強調し、その肉体は人の目に人間と映っているだけとする聖書観を指す言葉なんだけど。

 

やりすぎの場合は、キリストを神ではなくて、宇宙人として扱っているよね。

 

人間として形取った宇宙人であると言いたいわけ。

 

時たまスピリチュアル界隈で聞く「宇宙意識」という精神的概念を聖書に適用させて、宇宙にある集合意識が、人の目に見える形で受肉したのがキリストだって言ってるんだよ!!

 

いい?

 

スピリチュアリズムが都市伝説の根底にあることを覚えておいてね!

 

4.グノーシス主義

都市伝説の批評の前に、最後に確認したいのは、「救い」をどの様に考えているのかってこと!

 

聖書を読む上で、自分が救いをどこに求めているのかは非常に重要な要素をだからね。

 

どうやら関暁夫氏は、人の救いは「知識」、大袈裟に言えば「叡智」にあるとしてるんだよね。

 

その様に自己の本質を情報に求め、神の正体を突き詰め、救いを達成せんとする思想こそが「グノーシス主義」!!

 

グノーシス主義」とは、この世界を悪なる物質と善なる霊の二元論で理解し、それを前提として、それぞれの真理を探究し、真の知識を求めようとする哲学的思想運動である。「グノーシス」は、古代ギリシャ語で「知識、認識」を意味する(ナレーション)。

 

グノーシス主義」は、主にローマ世界で紀元前1世紀頃流行った考え方なんだけど、厄介なのは、哲学運動のくせに、宗教に寄生する性質を持っているってことなの。

 

真の知識求めることによって人は救われるってうたっているんだから、ありとあらゆる宗教に手を出すのは自然な成り行きなんだけどね。

 

歴史的には、大体3世紀ぐらい迄にかけて、ローマのミトラ教ユダヤ教メソポタミアゾロアスター教西アジアにおいては仏教なんかにも入り込んだ思想だと言われているの。

 

キリスト教も昔から、このグノーシス主義に手を焼いていて、聖書そのものが信徒に警告してる箇所もあるんだよね。

 

このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。私がこう言うのは、まことしやかな議論によって、誰もあなた方の惑わすことのない様にするためです(コロサイ人への手紙2章3節)。


これはさ、キリストの使徒であるパウロって人が、真の知識を求めることが救いだって考える哲学者に向けて、キリストにこそ真の救いがあるってことを言ってるんだよね。

 

グノーシス主義はさ、哲学的運動だから、宗教の教えの中から奥義とか言って、別の新たな教理を提唱する傾向にあったわけ。

 

だから寄生するどころか、最終的には宗教そのものを乗っ取ってしまうんだよ!

 

もちろん聖書の教えも例外じゃないってことなんだよね。

じゃあ、これらのことを踏まえて、今回放送されたやりすぎ都市伝説を紐解いていくよ!!

 

批評

さあ、今から都市伝説一つ一つを批評していくわけだけども。

 

あくまでもコレは、基本聖書からの批評であることを忘れないでね!

 

やりすぎ都市伝説は、これまで聖書の言葉を利用して、様々なことを主張してきたけれど、聖書を伝える伝道者としては、黙ってられないよね。

 

もう情熱が止まらないから!

  

1.バプテスマのヨハネの洗礼について

やりすぎのカメラは、最初に洗礼者ヨハネの足跡を追ってアル・マグタスを訪れたよね。

 

そして、「半端じゃない洗礼が降り注がれているからね。今宵のやりすぎ都市伝説は!」って言っていたの。

 

ここから分かるのは、関暁夫氏は「洗礼」ってものを精神概念化して理解しているってこと!

 

もちろん洗礼には精神的な意味もあるんだけど、本当に正しく捉えることができているのかってことが、批評のポイントになりそうだよね。

 

実は「洗礼」ってさ、聖書とは関係ないところから始まった文化なんだよね。

 

諸説あるんだけど、元々はヘブライ文化の中で、ユダヤ人達の祭服をザバッと青い染料で染めて、きよめた上で神殿の儀式に使用できる状態にしたっていう習慣から端を発するって言われているの。

 

その習慣がユダヤ人達の習慣に適用されて、日々の穢れを払う為に根付いていったんだよね。

 

だから、ユダヤ教を信じるユダヤ人の家庭には、「ミクヴェ」って言う穢れを払うための洗礼槽があったりするの。

 

そして、イエスが生きていた時代においては、洗礼は、洗礼を授ける者の教えに同意するって言う意味になってたんだよね。

 

キリストは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたわけだけども、つまりコレは、ヨハネの教えを受け入れたってことなの!

 

洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を授けたことによって、初めて聖書に関係してくる概念になったんだよね。

 

当時洗礼者ヨハネが教えていた内容は、要約して分かりやすく言うと「旧約聖書の預言に示されていた神が支配する理想郷の成就が近づいたから、その国民として相応しい者となりなさい」って意味なんだよ。

 

この教えに同意したってことを、公に行動でもって表すのが、洗礼者ヨハネの「洗礼」っていうことなんだよね。

 

要は、元々はユダヤ教における宗教行事なの!

 

いい?

 

つまり、関暁夫氏はある意味では「洗礼」って言う言葉の意味を正しく理解していないんだよね。

 

あくまでも自分が考える洗礼の認識が前提になっているわけ。

 

彼の言う洗礼がどの様な意味があるのかは明らかにされていないから、発言から考察するしかないんだろうけど、元々の意味とは全くかけ離れていることは確かなんだよね。

 

2.キリストの聖杯について

キリストの聖杯って言葉が出てきたけどさ。

 

これは聖書には一切出てこないんだけど、キリスト教の伝承と深い関わりがあるんだよね。

 

だから聖書から聖杯っていう物の存在の是非を問うというよりかはさ、聖杯って言うのものを通して提唱された都市伝説は、何を元にしているのかを追っていくことにするよ!

 

元々聖杯は、カトリック教において、イエスにゆかりのある遺物を模って、それを拝んで、キリストの行動を見習うとか、病気の治癒を期待するみたいな信仰から生まれた産物なんだけど。

 

あくまでもレプリカだから、キリストが直接触れたものではないんだよね。

 

関暁夫氏は「その聖杯を手にするものは、この世界を牛耳るって言われているんだよね。」

 

って言ってたけど、ただの宗教の祭儀に用いる物が、何故世界を牛耳る道具になり得ると考えているかと言うと、とある結社が関係してるんだよね。

 

その結社こそが「シオン修道会」!!

 

シオン修道会」とは、11世紀にまでルーツを遡ると主張する1956〜1993年にフランスに実際に存在した秘密主義組織である(ナレーション)。

 

シオン修道会ってさ、ミステリー、オカルト好きにはよく知られている秘密結社なんだけど。

 

組織のトップが国立図書館に文書を寄贈したときに、偽装がばれて、逮捕されて解体されているんだよね。

 

その偽造文書の内容が、キリストの血筋を引く正統後継者について言及していて、現王朝の転覆と他王朝の復興を目的とするもので、その筋の人にとっては大変興味深い内容だったの。

 

この話がさ、元々フランスの教会伝承を取材する記者に知られて、尾ヒレがついて拡散されちゃったんだよね。

 

結果「レン=ヌル=シャトーの謎」って言う小説が執筆されて、教会の伝承である財宝伝説や聖杯伝説と結びついちゃうわけ。

 

その小説によれば、聖杯って言うのは、コップの事ではなくて、アナグラムだって主張してるんだよ。

 

聖杯「san greal 」は、実は「sang real」“王家の血”だって言ってるの!


またこの考察が受けてしまって、とある小説家が参考にして記したのが、あの「ダ・ヴィンチコード」なんだよね。

 

つまり、小説の中で膨らんだ妄想が、雪だるま式に陰謀論やオカルトなどを吸収しつつ、神秘的に謎めいた聖杯伝説を世に広める結果になってしまったわけ。

 

関暁夫氏は、聖杯は人類の知恵の集合体である「AI」であると匂わせていたけれど、コレは彼独自の見解なんだけど、思想の元を辿ると結局は近世のオカルトの類なんだよね。

 

要は一昔前からまことしやかに囁かれている、世界を牛耳るとする聖杯の謎と、自分の意見を織り交ぜてエンタメとして昇華しているわけ。

 

番組内で、洗礼者ヨハネの頭部に対して関心を示していたけど、ヨハネの頭蓋骨を聖遺物化する見方もまた一昔前からあったからね。

 

いい?

 

つまりは、すべて聖書に関係ない、妄想の中で紡がれたものなんだよ!

 

コレは忘れちゃダメだからね!

 

3.死海文書3Q15の謎

今回、やりすぎのカメラがヨルダンの国立博物館に潜入したよね。

 

そこではさ、銅でできた死海文書3Q15について紹介してたけど、ここでその真偽について批評していくから!

 

放送内では、文書中には財宝ありかが書かれているとされていたんだけど、それは本当のことなんだよね。

 

ただ、財宝はフェイクであると学芸員から引き出していたんだよ。

 

その点を、批評のポイントとして3Q15の真実に近づきたいと思うんだよね。

 

いい?

死界文書3Q15はさ、英語では「copper scroll」って言って銅製の巻物なんだけど、銅に刻まれているということが、内容の謎を紐解く上でのヒントになっているわけ。

 

3Q15を刻んだとされているのは、発見されたクムラン洞窟に住んでいたユダヤ教パリサイ派の一派である「エッセネ派」って言う禁欲的な一派だって言われているんだよ。

 

当時、神殿などで用いられる公文書って、他の文書とすぐに見分けがつく様に銅に刻まれたとされているんだよね。

 

クムランに住んでいたエッセネ派ユダヤ教徒達は、今の修道院みたいな生活を洞窟でしていて、基本イスラエルにある神殿には関与しないの。

 

でも巻物が書かれた時ってさ、ローマ帝国との戦争の時期と重なっていて、多くの同じパリサイ派ユダヤ人達が、クムランに逃れてきていると考えられるんだよね。

 

それは彼らが共通で信じている、旧約聖書にも含まれる預言に基づく行動なの!

 

ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲い(現ヨルダン)の中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。(ミカ書2章12節)

 

これは、イスラエルが敵国に蹂躙される中、神を信じる者をペトラ(現ヨルダン)の荒野に集めることを預言している言葉なんだよね。

 

いい?

 

正に彼らは国家が存亡の危機に瀕していて、ユダヤ人達はみなこの預言に基づいてヨルダン川西岸の、クムラン洞窟に逃げてきたわけ!

 

そして、逃れてきた際に、神殿が破壊されて奪われる前に、大事な国の公文書を同じパリサイ派の派生であるエッセネ派の協力の元、隠したかもしれないんだよね。

 

つまり、示されている膨大な量の財宝は、当時のイスラエルの国有財産だったてこと!!

 

同時代のエルサレムには、ソロモン第二神殿って言う豪華絢爛な宮殿付きの神殿が建っていたから。

 

相当な財産を保有していたことは間違いないんだよね。

 

だからフェイクであることはほぼ考えにくいの。

 

放送内ではさ、「それほど大量の金や銀はヨルダンとパレスチナからは出ないからです」ってことで巻物の内容が誇張されているとしていたけど、そもそも別にパレスチナ地区で採掘された財宝のありかを示しているわけではないからね!

 

あくまでも当時イスラエルの国庫にあった金銀だから!

 

あえてフェイクであるとして、自らの持論に結びつけていることがわかるでしょ。

 

じゃあフェイクじゃないとしたら、宝はどこにあるのかって話になると思うけど、多分普通にローマ兵に見つかってるんだよね。

 

何故ならイスラエルは、3Q15を刻んだとされるすぐ後には神殿ごと滅亡していて、ローマ帝国は、やろうと思えば親ローマの非ユダヤ教ユダヤの高官を抱き込んで、いくらでも財宝の場所を聞き出すことができるから。

 

ただ疑問なのが、放送内でも触れられていたけど、エジプトの王である「アクエンアテン」の名が刻まれていることなんだよね。

 

コレはおそらくエジプトの土着の信仰と結びついたユダヤ教神秘主義思想の影響だと思うんだけど、だとすると、何故神殿の公文書であるはずに銅板にエジプト王の名前が刻まれているのかってこと!

 

これは専門家でもハッキリとした答えをまだ見つけることができてないんだよね。

 

3Q15についてはわかっていないことが多すぎるから、憶測に憶測で批評することになってしまったけれど、いずれにせよ、関暁夫氏が言う様な壮大な都市伝説に結びつくものではないことは覚えておいてね。

 

いい?

 

4.キリストの復活について

やりすぎでは、度々イエスキリストがテーマになることがあるんだけど、キリストの復活について本格的に触れられるのは初めてだよね。

 

関暁夫氏は、キリストを精神概念化して、AIとなって復活するって語っていたけれど、このことについては、聖書から明確に反論することが可能なんだよね。

 

先ず押さえておいてもらいたいのは、聖書以外にキリストの生涯や教えを記しているの書はほぼ無いってこと!

 

あるとしても、同時代の歴史家が、キリストって言う絶大な影響力を誇った存在が実際にいたっていうことを少し示唆するってぐらいで、詳細までは記されてはいないんだよね。

 

そして、キリストの教えに関しては確実に聖書にしか書いてないからね。

 

つまり、キリストの復活について言及しているのは、この世に聖書しか存在しないってことなんだよ!!

 

そもそも聖書は、キリストは既に復活しているって主張しているんだよね。

 

しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです(使徒の働き2章24節)。

 

また聖書を総合すると、復活したイエスは弟子たちの前に40日間に渡って10度現れたことが分かるんだよね。

 

弟子達は予めイエス本人から死んで復活するってことを聞いていたんだけど、誰も信じなかったの。

 

だから彼等の目の前に現れる必要があったんだよね。

 

そして、復活が意味することっていうのはさ、キリストが人類の罪を負って身代わりに死んだって言うことが、神によって認められたってことなんだよ。

 

つまりキリストの復活は、人類救済の完了を告げるデモンストレーションだと言えるの。

 

いい?

 

ただ自分のスーパーパワーを見せびらかせているんじゃあないんだよ!

 

きちんと意味があるってこと!!

 

もちろん聖書にはAIとなって復活するなんて書いてないし、ましてやキリストを精神概念化するなんて発想自体がないんだよね。

 

もっと言えば、キリストの人類の救世主としての役割は既に終えているって言うのが、聖書の教えなの!

 

あとはそれこそ、キリストの救いを信じるか信じないかは、あなた次第ですって話なんだよ。

 

次にキリストが来るとされているのは、人類歴史が終わる時で、世界の裁き主として降臨する時とされているから。

 

だからキリストの復活については、完全にやりすぎ都市伝説のただの妄想に過ぎないってことなんだよね。

 

つまらなくて申し訳ないけど、それが真実だから!

 

5.AIジーザスについて

AIジーザスってさ、一昔前に話題になった聖書を読み込ませて学習させたAIなんだけど、実際のところはただの遊びの域を出ていないんだよね。

 

そもそも、このAIは宗教の格言を機械によって作り出す実験の為に作られたもので、人を正しい道徳へ導く為のものではないの。

 

関暁夫氏は、さも聖書から道徳的に理想的な基準から答えを導き出す為の装置の様に説明していたけど、導き出されるアンサーは開発者の一意見だし、聖書の言葉ですらないから!

 

なんなら今は「ask Jesus」って言うスマホアプリの方が聖書のことを教えてくれるとして、ちょっと話題になってるんだけど、この最新のアプリですらソフトを作った人達の聖書に対する考え方が投影されているだけなんだよね。

 

因みに「イエス・キリストは神ですか?」って聞いてみると、「違います」って返ってくるから!

 

AIにいくら学習させても、基本的な聖書の考え方ですら修得させることができないのが現状なんだよね。

 

確かに技術の進展によって人間生活のありとあらゆるところで、これからAIが活用されるんだろうけど、キリスト、あるいは聖書が完璧な形でAIとして具現化されることはないから!

 

いい?

 

そもそも不完全な人間に、完璧なアルゴリズムを構築することなんて不可能なの!

 

だから番組内で言われた様に、AIジーザスが人の命に関わるような、重要なところで利用されることは考えにくいんだよね。

 

まとめ

関暁夫氏の聖書観は以下である。

①聖書の言葉のすべては信じずに一部だけ信じている

②世界を物質と霊の相反する性質で構成されているとした上、肉体を悪と捉えている

③キリストを精神的概念として捉えている

④被造世界ではなく精神世界に知識を求めることによって人は救われると考えている

批評①洗礼のとは教えに同意することを表す宗教儀式である

批評②キリストの聖杯伝説は元々教会による作り話である

批評③死海文書3Q15は古代イスラエル王国の公文書である可能性が高い

批評④キリストは聖書によればすでに復活している

批評⑤AIジーザスは聖書で使われている言葉から格言を生み出すためのものに過ぎない

 

さて、いかがでしたでしょう。

これが、巷で噂されている都市伝説の真実です。

この事実、受け入れるか受け入れないかは...

 

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聖書の名言(迷言) 「空の空。すべては空。」(伝道者の書1章1節~2節)

こんにちは、来栖川クリスです。

 

今回は聖書の迷言である「空の空。すべては空。」を、キリスト教伝道者が分かりやすく解説していきます。


本記事は、聖書のことばにすこしだけ触れてみたいと思っておられる方にオススメです。

 

聖書の教える人生観を簡単に知ることができる内容となっておりますので、是非ご利用ください。

 

今回紹介するのは、聖書中の詩集である、「コヘレトの言葉」1章1節~2節に含まれる言葉なのですが、この箇所で区切ると、きれいに3行詩に様になっていて、詩集全体の概要にもなっています。

 

3行詩目の「空の空。すべては空。」という結論に向けて、1行詩ずつ背景説明を交えながら、3分割で簡潔に解説していきます。

 

「目次」

  1. 「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば」(1節)
  2. 「空の空。伝道者は言う。」(2節a)
  3. 「空の空。すべては空。」(2節b)
  4. まとめ

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1.「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。」(1節)

1行詩目は「コヘレトの言葉」の著者が、何者かが示されています。

 

先ず「エルサレムの王、ダビデの子」とありますが、これはダビデ王の次にイスラエル王国を継いだソロモン王を指します。

 

ということは、「空の空」という言葉は、ソロモン王の言葉であるということです。

 

また「伝道者」とあるのは、ソロモンが王としてではなく、いち人間として伝えてたいことがあるということの現れです。

 

この詩が書かれたであろうソロモン王の治世は、イスラエル王国の黄金期であり、絶頂期です。

 

ダビデ王の時代に統一された王国を引き継ぎ、隣国との関係においても概ね良好で、経済的に非常に豊かでした。

 

飽食の時代で、鼻から食い物が出るほどの豊かさであったとされています。

 

ソロモンの父ダビデ王は、政治的手腕に長けており、軍事的にも非常に優秀な指揮官でした。

 

彼は、紆余曲折ありながらも先代から不安定な状態で国を受け継ぎ、分裂していた国を平定し、次々と戦に勝利していきました。

 

それだけで無く、王国がバラバラとなっていた要因である宗教的無秩序を改善するために、神殿建設を計画し、民に精神的主柱と明確な目標を与えました。

 

見事にイスラエル王国黎明期を牽引したダビデ王は、息子ソロモンに理想的な形で国を引き継ぐことになります。

 

また、ソロモンは、非常に知恵のある賢王とされていて、父からの宿題である神殿建設工事を見事に主導し、荘厳な神殿を完成させます。

 

神殿の内部は、全て純金で覆われ、祭具も殆ど純金製で造られました。

 

また、豪華な王宮も建設しましたが、王座は象牙で造られ、それは純金で覆われていました。

 

食器も全て純金で、銀の物はありませんでした。

 

「銀は、ソロモンの時代には価値あるものとはみなされていなかった。」(列王記第一10章21節)

 

という程に、物の価値がインフレしていたということでしょう。

 

イスラエル王国は正に黄金期を迎えたのです。

 

王国は絶頂期を迎える一方、国王ソロモンは「空の空」と歌いました。

 

何やら意味深ですね。

 

そんな、何ひとつ人生に不足のない、満たされていたはずのソロモンが、何故「空の空」と歌っているのでしょうか。

 

一体何を訴えたいのか。

 

2行詞目に移りたいと思います。

2.「空の空。伝道者は言う。」(2節a)

2行詩目は、伝道者ソロモンがこの書を通して何を主張したいのかが表現されています。

 

「空の空」。

 

この言葉が、「コヘレトの言葉」全体を通して貫いているメインテーマです。

 

「空」と訳されている言葉は、原語では「へベル」と言い、「虚無」というニュアンスがあります。

 

その「へベル」が「空」の「空」と二度繰り返されているのは、強調の意味を表す詩的表現が施されているからです。

 

つまり、とにかく人生は空しいということが言いたいわけです。

 

非常に哲学的なテーマと言えましょう。

 

ソロモンは物に満たされながらも、自らの人生に空さを感じていたのです。

 

ある神学者は、人間の心には決して埋めることの出来ない大きな穴があると言います。

 

人は際限なくあるとあらゆる物をそこに詰め込もうとするが、穴は宇宙空間の様に口を広げ際限なく飲み込むと言うのです。

 

そして、その穴が人間に虚無感を与え、欲求へと繋がるものとなっているとしました。

 

ある人はそこに食べ物を放り込みます。

 

ある人はそこに異性を放り込むことでしょう。

 

またある人は、そこに仕事を放り込みます。

 

しかし、食べ物は死ぬまで必要だし、異性に期待しても、同じ虚無を抱えている人間ですから、貪り合うのがオチです。

 

貪り尽くしたらヤドカリみたいに他の人へ移り、食い尽くしたら適当な理由をつけてお別れし、かわいそうな自分に酔う。

 

酔いが覚めたら再び寄生先を探し回る。

 

現代人の典型ですね。

 

では、仕事はどうでしょうか。

 

一生懸命働き、評価され、金を得ることによって、社会に必要とされ、チヤホヤされることによって心の穴は埋まるのでしょうか。

 

これ以上ない程の成功者であり、クイーンオブポップスと評価されているマドンナと言う歌手がおります。

 

彼女は富、名声、エンタメ業界では力も欲しいままにしましたが、成功を手にしても尚、自らの心に確かに巣食う虚無があると自伝で認めています。

 

承認欲求と言う言葉とは全くの無縁であり、一つの道を極めた彼女ですら、人の心に確かに存在している穴を塞ぐことが出来ませんでした。

 

有名な人であろうとも、しばしば自殺するのは、心が弱いからではなく、自らの深淵と目があってしまったからでしょう。

 

ましてや貴方はどうでしょうかと、聖書は人間に訴えかけます。

 

ソロモンもまた、人の心の虚無に当てられた一人の人間です。

 

これ以上ない程に満たされ、欲しいものは全て、何でも手に入る状態だったからこそ彼は、他の誰よりも、現実的に心の中に無限に広がる大きな宇宙を感じたのでしょう。

 

そして伝道者として、他の誰よりも満たされた立場に置かれた者として伝えねばならないことがあると筆を取ったのです。

3.「空の空。すべては空。」(2節b)

3行詩目は、「コヘレトの言葉」の結論とは何かが表現されています。

 

伝道者は、要は人生の「すべては空」であると言っているのです。

 

人間の生きる道、それ即ち「虚無」である。

 

コレが賢王ソロモンの導き出した結論です。

 

彼は、晩年大きな失敗をします。

 

王国が経済的に豊かになり、他国とのグローバルな交流が増えていく中で、宗教的干渉を自ら招き入れてしまいました。

 

結果、王国のアイデンティティーは損なわれ、民の心がバラバラになってしまい、分裂を引き起こしてしまいました。

 

そして、国力が弱まり、次第に戦が増え始め、経済は冷え込み、イスラエル王国は衰退期を迎えることになります。

 

ソロモンは自らのアイデンティティーを忘れ、自らの意味を失ってしまったのです。

 

アブラハムが約束した地に住み、今その約束の中を歩んでいるということ。

 

モーセ率いる先祖たちが葦の海を渡り、解放された結果、今ここにいるということ。

 

先代ダビデが先駆けとなって国をまとめ上げ、栄える為に全て必要な物全てが備えられていたということ。

 

自らが何者かを忘れたことによって、文字通り何者でもなくなってしまったのです。

 

この姿が人間の本性ではないでしょうか。

 

自らが何者かを忘れた何某が、「空の空。すべては空。」と言いながら、虚しく過ごす時間。

 

それが人生だとソロモンは言い切ります。

 

「しかし本当にそうだろうか。」

 

この言葉に真摯に向き合い、その様な問いかけが心の底から出たならば、知っていただきたいことがあります。

 

私はソロモンの爪の先程も、心の闇と向き合ってはいませんが、同じく、いち伝道者として心を虚しくしている人に伝えたいことがあります。

 

人が生きる意味は「神」にこそあります。

 

それがこのソロモンの言葉、及びこの言葉が書かれている「コヘレトの言葉」には記されていない聖書全体の結論です。

 

筆者であるソロモンは、「神」という、今まで自分の主柱であったものを忘れた結果、無意味で空しい人生を送ったのでした。

 

その結果、人生は「空の空」だと言ったのです。

 

彼は神を忘れた結果、自らのアイデンティティーをも失いました。

 

先祖アブラハムも、モーセも、ダビデも全て「神」を中心に据えて歩んできた信仰者です。

 

そもそも、人間そのものが神の作品であると聖書は言います。

 

作者である神のために生きてこそ、作品である人本来の生き方があると言うのです。

 

しかし、現代人は何の根拠もない、元々哲学的思想であった進化論と言う神話を何となく信じ込み、本来の存在意義を失い空しく息をしています。

 

人の心の虚無の原因は、「神を忘れたこと」である。

というのが、別の角度から見えてくるもう一つの結論です。

 

本当に貴方は、ある時偶然起こった大爆発から発生した宇宙の、偶然形成された惑星の中で、偶然生じた微生物の中から、偶然起こった突然変異によって変化した無意味な生命体なのでしょうか。

 

その無意味なの生命体が偶然群れを成し、ある日偶然産まれたとし、偶然そこにいるとしている貴方は、自分にどの様なアイデンティティーを見出すことが可能だと言うのですか。

 

それとも「いやいや人間決まった答えなどないよ」という思考停止で底の浅い答えを胸に、心虚しく貪り続ける人生を続けますか。

 

それもいいでしょう。止める資格は誰にもありません。

 

誰しも同じ様に心に大きな穴が開いているのでから。

 

しかし、真に満たされた意味のある人生を送るためには、一歩立ち止まって考える必要がありそうです。

 

その穴に何か詰め込もうとするのではなく、覆ってくれる存在を求める必要があると思います。

 

4.「まとめ」  

「空の空。すべては空。」という言葉は、ソロモン王の言葉である。

「空の空。すべて空。」という言葉は、富者ソロモンが伝道者として伝えたいことである。

「空の空。すべては空。」という言葉は、神を忘れた空しい人生を説明する言葉である。

 

「ご紹介」

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原罪論曼荼羅

サムネイルの絵のタイトルは、「原罪論曼荼羅」です。

 

これは、キリスト教神学が提唱する原罪論を表した、曼荼羅です。

 

曼荼羅とは、主に西アジアの宗教に用いられている、教理体系を模式的に示した円図形のことをいいますが、この図には聖書の教理に基づく、神を失った人間の本質が、見える化されています。

 

聖書の学びの助けとなれば幸いです。

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『聖書考察』12使徒イスカリオテ・ユダの可能性

こんにちは、来栖川クリスです。

今回は、「イスカリオテ・ユダ」についての考察回です。

私の主観に基づく考えが書かれていますことを、予めご了承願います。

本記事は、イスカリオテ・ユダという人物に疑問を覚えている、聖書中級者の方必見です。

12使徒ユダについてのモヤモヤを、清算する内容となっておりますので、スッキリしていない方、是非ご利用ください。

目次

  1. 使徒集団におけるユダの位置づけを考える
  2. イスカリオテ・ユダの救済を考える
  3. キリストが裏切り者ユダを使徒に任命した理由を考える 

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イスカリオテ・ユダって何者?

本論に入る前に、イスカリオテ・ユダとは何者かを、ザっと説明します。

 

彼の正式名称は「イスカリオテ・シモンの子ユダ」です(ヨハ6-71)。

 

ユダという名前は、「神に感謝する」「神をほめたたえる」という意味を持ちます。

 

イスカリオテと言うのは「カリオテ出身の人」という意味であり、「カリオテ」は、イスラエル南部、イスラエル12部族の、ユダ部族の町を指す言葉です(ヨシュ15-25)。

 

イスラエルの中でカリオテは割と都会なので、ユダはエリート意識があったものと類推されています。

 

他の使徒11人は、全員ガリラヤ出身であり、田舎者であったのに対して、ユダは所謂シティボーイでした。

 

また、彼は使徒集団の金庫番でした(ヨハ12-6,13-29)。おそらく資産運用能力にたけていたものと考えられます。

 

当時の習慣では、ラビは弟子集団の財布を、ある適任者一人を選抜して全額を委ねるのが一般的であったようです。

 

もちろんその役割を担うものは、人格的に最も信頼されている者でした。

 

しかし、皆さんご存じの通り、ユダは自らの師であるイエスを裏切ります。

 

何故キリストは、自らの宣教活動の生命線である金入れをユダに委ねたのか(ユダだけに)。

 

その点が一番モヤモヤしますよね。

 

考察

エスは初めからユダが裏切り者であることを知っていたようです(ヨハ6-64、同70~71)。

 

知っていながら、彼を重要なポストに置くことに、声なきメッセージがあると私は考えます。

 

様々な観点からの考察を試みますが、すべて私の憶測の域を出ません。しかし、考える価値は十分にあると思います。

    

単に、聖書の不明瞭なところに光を当てて考えを整理すること以上に、人を生かす教訓が何か落ちているとみえるからです。
     

では、キリストは何故ユダを選抜したのか、様々な可能性から考えてみたいと思います。

 

1.使徒集団におけるユダの位置づけを考える

   

イスカリオテ・ユダの謎を語る上で外せないのが、イエスの彼への優遇でしょう。

 

ユダは使徒の中で割合高い位置付けを与えられていたものと考えられます。


つまり、キリストは裏切ると分かっていながら、弟子たちの中で、あえてある程度の権限を与えていた。これもまた謎ですよね。

    
序文で紹介したように、都会出身で金銭のマネジメントにたけていたことから、大変能力があった人物と伺えます。

 

エスは自らの教えを流布する為に、様々な地を巡回しながら伝道していました。

     

その際、重要なのが金庫番です。その地その地でどのくらいの金が必要なのか、衣食住を計算して、算出なければなりません。

 

またユダヤ人は、祭りの時期は聖地エルサレムに上らなければならず、通行税、神殿税、生贄の確保など、様々なことに気を配らなければなりませんでした。

 

我々も旅行に行く時は、ある程度所持金を決めて、その範囲内で活動すると思いますが、古代も同じです。


使徒達はイエスに従うときに職を捨て、すべてを手放してきたので、寄付などがあったとはいえ、慢性的に金欠状態だったでしょう。

 

エスの伝道旅行を管理したユダの能力は、非常に有益であったと考えられます。当然優遇されるべきです。

      

しかし彼の地位が最も強調されているのは、所謂「最後の晩餐」の場面です(ヨハ13章)。ユダは何とNO.2の席についていたものと考えられています。

 

少なくともかなり上席に付いていたでしょう。

 

エスは、晩餐会の途中、何度もこの中に自分を売り渡す者がいることを予告していました(ヨハ13-10,18、21)。

 

その際、なかなか誰なのかに言及しないのにしびれを切らして、使徒達は心を騒がせていました(ヨハ13-22)。

 

末席に座っていたシモン・ペテロが、最も上席についていたヨハネ(ヨハ13-23)に、誰が裏切り者なのかを聞くように指示します(ヨハ13-24)。

 

ヨハネがイエスに質問すると、イエスはなぜかユダに給仕し始めます(ヨハ13-26)。

 

そして彼に「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」と言いました。

 

ユダは立って、晩餐を後にしました。

 

彼は、最後の晩餐までにはキリストを銀貨30枚で敵対者に売り渡す契約をしていましたが(ルカ22-3~6)、この値は、古代の奴隷を贖う値段であり(出21-32)、最大の侮辱でした。

 

対してイエスは、パンを酢に浸してユダに渡します。この給仕は、当時主賓が客人に、食卓の席で行う最大の友情のしるしでした。

 

この時のユダの心中は如何ほどであったでしょう。誰も知るよしもありません。

 

これは単に、罪人の友として来たメシアとしてのデモンストレーションではないと思います。

 

席順を決めるのは基本的には主賓であり、この場面ではイエスがそれに当たります。

 

そして、イエスはユダを裏切り者だと知りつつも、友情のしるしを示す為に給仕をしました。

 

皮肉にも、ユダに心から裏切りを思いとどまらせる方法は、これしかなかったのです。

 

初めからユダが裏切ると知り、最上のかたちで自分の思いを伝えたうえで、裏切りを警告するこの場面を見越していたとなると、自らの近くに置くしかない。

 

つまり、ユダはイエスのすぐ隣についていた可能性が最も高いのです。

   

エスは彼が裏切った前も後も、一貫して何かを期待していました。

 

その先に、ユダに高い地位が与えられていた精神的理由が、或いは、彼の真価があったのかもしれません。

 

2.イスカリオテ・ユダの救済を考える

裏切り者ユダの結末は、自殺です。彼はイエスが死刑判決になったことを激しく後悔し、自責の念に駆られたようです。

 

そして罪責感を緩和する為か、イエスの敵対者たちに銀貨30枚を返却しました。

 

しかし、彼らは金を受け取らなかったので、神殿の賽銭箱に投げ込み、外で首を吊って死にました(マタ27-3~4)。
          

では、彼の魂は救済されたのでしょうか。ポイントは「死で死を償おうとした」ことです。

    
キリストは一貫して自力救済を否定しています。

 

メシア(救い主)として、神の国の福音即ち、アブラハム以来、旧約聖書の時代からユダヤ人が待望していた、御国の到来を宣言し、その民としてふさわしく罪の悔い改めを宣べ伝えました。

 

しかし、イエスの伝道の本質は、恵みと信仰による救いです。

 

あくまでも救いは神にありとしました。人には人を救う資格などありません。ましてや自分の魂を救うなど連木で腹を切るようなものです。

 

当時、ユダヤ人であれば自動的に御国、即ちユートピアに入れると説いていた宗教指導者たちに対して真っ向から反論し、善行による救いではなく、キリストを救い主とする狭き門から入ることを教えました。

 

ユダは弟子として、イエスの伝道を間近で聞きながら、その内容を理解できませんでした。


いや、理解しようとしなかったという方が厳密なのかもしれません。
      
ユダにはを裏切ってからもチャンスがありました。

 

実に首にロープをかけて、縊死するその瞬間までキリストを救いとする機会が与えられていたのです。

 

エスはおそらく自分の元に戻ってくるのを待っていたと思います。

 

それがユダに期待していたことの一つなのかもしれません。

 

しかし、彼は最後まで自分で自分を救おうと努めました。

 

その様は、正に私たちの姿そのままです。

 

3.キリストが裏切りものユダを使徒に任命した理由を考える

私は、エスを裏切ってからが、彼の使徒としての本当の価値があったのではないかと考えています。

 

何故なら、彼の取った行動が、悪いことであったとしてもイエスをメシアであると指し示していたからです。

  
ユダは銀貨30枚でイエスを売り渡しましたが、これは旧約聖書にメシアを指し示すものとして予め預言されていたことであります(ゼカ11-11~12)。

 

また、祭司長たちはユダの投げ込こんだ金を、神殿で使用できない穢れたものであるとして、陶器師の畑を買い、旅人の共同墓地を購入する代金にあてました(マタ27-5~7)。

 

これもまたメシア預言の成就です(ゼカ11-13)。

 

また彼自身が旧約の登場人物に非常に類似しています。

 

創世記37章では、ヤコブの4男ユダが、父に最も愛されていたヨセフを奴隷として売りました(創37-26~28)。

 

この時の値は銀貨20枚でしたが、族長時代の成人男性の奴隷一人分のレートであったとされています。

 

そしてヨセフはイエスの予型です。

 

それに関しては、ステパノのサンヘドリンでのメッセージに言及されています。

 

彼は、ユダを含めた12の族長がヨセフを妬み  エジプトに売り渡したことと、イエスを死刑にしたことは正に同じだとユダヤ最高評議会に対して大胆に語っています(使徒7-9~18)。

 

ヨセフは父ヤコブから寵愛を受けていたため、兄たちに妬まれ奴隷として売り渡しましたが、イエスは、神を父と呼んだことをユダヤ人達に妬まれ、売り渡されました。 

     

つまり、ユダがイエスの予型であるヨセフを売り渡した構図が、約1500年後にユダによって完全再現されているということです。

 

それは旧約聖書の民であるユダヤ人達に、イエスがメシア即ち「救い主」であることを指し示す為でした。

 

自らがイエスを救い主であると再現しながら、キリストを救いと認めなかったのは、強烈な皮肉ですね。
    
私は、旧約聖書の縮図であるイエスが、ユダの町に住むユダを、自らを宣べ伝える使徒として任命したのは偶然ではないと考えます。

 

彼に何か神の計画を感じ取ったのでしょう。おそらくは、12使徒選抜の前日の徹夜の祈りの中で確信が与えられたものと思います(ルカ6-12)。

 

もちろん、イエスはユダが裏切るとは分かっていました。

 

しかしその先に、彼が知らずに体現していたメシア預言をなぞった行動が、自らの証となった未来があったのです。

 

キリストは、その可能性に賭けたのかも知れません。
     

まとめ

考察①ユダは使徒集団の中で、実はNO.2であったと考えられる。

考察②ユダは神に救われたのではなく、自分で自分を救おうとしたものと考えられる。

考察③ユダの使徒としての真価は、イエスを裏切った後にあったものと考えられる。

 

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