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【神学とは】聖書を正しく理解するうえで必要な、神学に対する基本的な理解を簡単に解説!

こんにちは、来栖川クリスです。

 

今回は「神学とは何か」をキリスト教伝道者がなるべく分かりやすく解説していきます。


本記事は、聖書を読む上で神学を参考にしたいと思っている方に特にオススメです。

 

神学の正しい理解を簡単に知ることができる内容となっておりますので、是非ご利用ください。

 

神学という概念は、人のよって定義がバラバラです。

 

神学とは何かという問い自体が、もう既に哲学的なのです。

 

ですから、一般論としての「広い意味」を確認した後、私なりに厳密に神学を定義してみたいと思います。

 

そして後に、聖書を正確に読む上で最低限必要な神学を紹介したいと思います。

 

「目次」

  1. 三位一体
  2. 信仰義認説

「ご紹介」

  1.  聖書をお求めの方へ

 

1.「神学の広義的意味」

何かの意味を考えるうえで、その言葉が持っている目的から見ていくのが分かりやすいと思います。

 

では神学の目的とは何なのか。

 

それは、聖書の内容の厳密な把握と言えるでしょう。

 

真っ当な神学のベクトルは、いかなる場合においてもその目的に収斂していきます。

 

神学の発展は、異端との戦いの中で広がってきた歴史にあります。

 

発端を遡れば、紀元1世紀、即ち聖書の記事にまで遡ることができるでしょう。

 

「神学」という言葉はもっとずっと後にできたものですが、その本質は、12使徒率いる原始教会時代からうかがえます。

 

初期の教会は、所謂「異なる福音」に悩まされていました。

 

福音とは、救い主イエスキリストの到来と救いとを告げる良い知らせのことです。

 

異なった福音とは、福音の論理的筋道から外れた偽の知らせのことを指します。

 

教会はイエス・キリストの死後10年程経ち、徐々に勢いを増し、エルサレムを拠点として多くのユダヤ人受け入れられていました。

 

他方、福音がユダヤ人以外の者、即ち聖書の言葉では「異邦人」にも多くの者に受け入れ始められた頃、事件が起こります。

 

多くのユダヤ人の中に、異邦人が徐々に教会に集い始めた時、異邦人はユダヤ人の生活基準によって生きなければならならないのかという教理的疑問が生じました。

 

ユダヤ人達は当時、旧約聖書に基づいて種々の律法を守り行っていたからです。

 

その際、1番問題にされたのは「割礼」です。

 

ユダヤ人にとって、割礼は彼らの信仰の父であるアブラハムが行ったことから、神に従うことをの絶対的な「証」でありました。

 

そして彼らの中の一派は、福音を通して神に従い、教会に交わるうえで、異邦人にも包皮の一部を切除しなければならないと要求するに至ったのです。

 

この様な立場を取るものを「割礼派」と言います。

 

割礼派が、福音に付加物として、割礼や律法の遵守を命じる様な宣教をし始めました。

 

それが所謂「異なった福音」であります。

 

ユダヤ地方で福音述べ伝える使徒達をよそに、割礼派の偽の福音が躍進し、遂にはエルサレムを越境してしまいました。

 

そしてある日、使徒パウロ率いる異邦人が中心の教会であった教会アンティオキアに、割礼派の教えが述べ伝えられ、そこで大議論が起こったのです。

 

パウロは主に異邦人への宣教を主軸に福音を述べ伝えていたので、割礼派の教えを激しく拒絶しました。

 

教会はその際、ある程度教理を形式化する必要に迫られたのです。

 

そこで12使徒率いるエルサレム教会で教会初の大会議が催され、教義が確認されました。

 

それは「異邦人の救いの為には割礼は必要ない」というものでした。

 

教会が、聖書の内容を厳密にして教理を確立した初めてのケースであると言えるでしょう。

 

故に信徒は、神学の始まりは原始教会にあると牧師から教えられることが多いと思います。

 

なるほど、確かに聖書の内容を厳密にするという定義における神学の歴史は、初期の教会にまで遡れることがわかりました。

 

しかしこの理解だけでは、唯の一般教養レベルです。

 

神学を実際に利用するのであれば、十分ではありません。

 

聖書に興味があるのであれば、神学の定義をより厳密にする必要があります。

 

2.「神学の狭義的意味」

一般的には、神学とは、聖書の厳密な把握と捉えられていると思います

 

しかし、その理解のままではあまりにも大雑把です。

 

それどころか、神学を学ぶのであれば、大いなる誤解をもたらす危険性すらあるのです。

 

聖書を神学するならば、より厳密な定義が必要になります。

 

神学を正しく理解するには、まず構造を理解せねばなりません。

 

その際、絶対に忘れてはいけないのは、神学の持つ2つの性質です。

 

それは「内容原理」と「形式原理」です。

 

内容原理とは、聖書の中心的内容によって常に反省を必要とするという原理のことです。

 

形式原理とは、聖書の体系を念頭に置き、主題に基づいて、断片的形式化を目的とする原理のことです。

 

この2つの原理は、相互補完的に神学という概念を形作っています。

 

そして、この2つの性質の内「内容原理」が常に優位になります。

 

神学は常に形式的に語られ共有されますが、真っ当なものは、聖書の中心的な内容を主軸に置いています。

 

例えば、プロテスタントの聖書論(聖書の捉え方)における神学である「聖書のみ」という宣言は、聖書の内容を優位において把握されなければ正しく理解したとは言えません。

 

「聖書のみ」は、今ではプロテスタントの「信仰義認」、「万人祭司」と並び、3大原理として、正統主義神学として取り扱われています。

 

旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻のみが唯一絶対の権威を持ち、その基準は、議論の余地が無く絶対的ものである」というプロテスタントの正当性を告白する宣言です。

 

この教義は、元々は、宗教改革時代において、カトリック教会の権威に反論する目的で定められたものでした。

 

当時のカトリックは特に、66巻の言葉の権威よりも、外典や偽典、教会伝承の権威が上回る傾向にあったので、議論を聖書に基づいたものにする必要がありました。

 

贖宥状の問題を契機に、キリスト教の救済論が混乱に陥っていたからです。

 

混乱を整理する為には、聖書の中心的な内容である「福音」に基づいて神学しなければなりません。

 

つまり「聖書のみ」は、福音という内容を圧倒的優位に置きつつ、聖書の教える救いを明確にする為に形式化された神学であったと言えるでしょう。

 

しかし、宗教改革時代に叫ばれた「聖書のみ」は、今ではほぼ全てのプロテスタント教会で掲げられている正義となっています。

 

信徒を聖書以外の書から護り、聖書の教える真理を正確にかつ適切に取り扱って礼拝を保持していく為の教義として取り扱われているのが現状の運用です。

 

プロテスタントの一派である改革派教会では「ソラ・スプリクトラ(聖書のみ)」という固有名詞にまでなり、現行聖典の絶対的権威を主張する論拠とまでなっています。

 

ただし、念を押しますが、気をつけなければならないのは、神学の内容原理の圧倒的優位性です。

 

残念ながら今の教会は、聖書の内容から「聖書のみ」に導くのではなくて、「聖書のみ」から聖書の内容に導いています。

 

形式と内容の逆転現象が起こっているということです。

 

あくまでも、「聖書のみ」という神学は、神の言葉、即ちキリストの言葉、即ち使徒達の言葉こそが、信者を支配する絶対的権威であると確認される為に、聖書の内容を優位に置いて定められた教義でした。

 

聖書の権威の前には劣るものとして、プロテスタント教会の中で確認された宗教改革時代のスローガンです。

 

しかも、カトリックを打倒する目的で付け焼き刃で宣言されたものでありました。

 

それがやがて、正統的神学として扱われ、プロテスタント教会の礼拝を守っていくための教条となったまでは、まあ良いでしょう。

 

しかし、聖書解釈の範疇にまで応用され、不毛な議論を生み出す温床となっている現状については、今を生きる信徒として疑問を抱かざるおえません。

 

今は「聖書のみ」という形式を聖書と同列以上に置き、内容を解釈してしまっているということです。

 

教会はあくまでも66巻だけが基準でなければならないと拘るあまり、「聖書の完結性」という聖書の内容には一切見られない、凝り固まった前提でもってでしか聖書を神学しなくなりました。

 

学術的で、ロジカルな聖書研究を阻害してしまっているということです。

 

聖書は全66巻からなりますが、66巻のみが聖典として認められるべきであることを裏付けるテキストは、聖書の内容自体には一切ありません。

 

事実、使徒達が支配していた原始教会時代は、66巻に加え、他に少なくとも十数余りの文書を用いていたことが学術的に確認されているのです。

 

しかも聖書のテキスト自体に、旧約偽典からの引用が確認できます(ユダ9,14)。

 

こういうと、聖書の十分性ガーとか、聖典の完結性ガーをとか更なる形式が展開され、不毛な議論に陥ることがありますが、それら主張も宗教改革時代の骨とう品であり直接的に聖書から論証不可能なものです。

 

初期教会は、聖書であれ、外典であれ、偽典であれ、預言であれ、或いは使徒達の言葉であれ、何であれ、見分けることをもって信徒の交わりの中で共有し、良いものは保持していました。

 

この様な初期教会の協調性は、今の教会に失われた文化であると言えるでしょう。

 

いつ、どこで、どのくらいの量の啓示が必要かは、神のみぞ知ることです。

 

聖書の十分性を断定的に論じることは、生きとし生けるすべての信徒の必要性を限定することであり、聖典の完結性を断定的に論じることは、神の必要性を限定することです。

 

これは明らかに神の領域に人が踏み入る越権行為ですが、、、何様なんでしょうかね。

 

ホント恐ろしくないのかと思うばかりですよ。

 

或いは、教義においては「聖書のみ」から聖典の権威が強調されるがあまり、時に「聖書に従わなければならない」とまで説かれることがあります。

 

これは一見聞こえは良いですが、聖書の内容とは反対のことを主張する教えです。

 

信者は、神に従うことにおいて全くの無能であることを聖書から教えられたうえで、教会に集められるのにも関わらず、再び「神に従わなければならない」と義務的に迫られるのです。

 

これは、信徒の信仰を正しい方向へ導くものではありません。

 

人は神に従いたくても、従えない性質を死ぬまで宿していると聖書は教えているからです。

 

この様な正統主義のあり方、即ち、神学の部をわきまえず、形式のみを強調した演繹的応用によって異形の姿になった正義は、時に「死せる正統主義」と表現されることがあります。

 

元々のロゴス(命)を失い、外形だけが独り歩きしている状態が“死んでいる”と形容されているということです。

 

神学は、聖書の内容から離れ、元々の目的を超えた扱いを受ける時、信徒にとっては猛毒となるということですね。

 

ロゴスと切り離された神学は、ゾンビの様に人を襲い、襲われた者はその神学に毒され、また人を襲うのです。

 

神学は、聖書の内容、特に中心的内容である「福音」を優位に置いて、常に下位に位置付けられなければなりません。

 

聖書に書かれていることを超えない形で、聖書の厳密な理解のためだけに用いられるべきであり、聖書と同等の権威を帯びるべきではないのです。

 

ですから、神学的混乱や、過ちが起こり得ない厳密な定義が必要です。

 

一般的に神学は、信条や教義などを包括した概念として取り扱われることが多いと思います。

 

しかし、あくまでも聖書の内容を厳密にする営みであって、形式化された結果である教義や信条までを含みません。

 

また、聖書そのものとは権威において一線を画すべきであります。

 

したがって、聖典、神学、教義とは明確に区切られるべきです。

 

そして、神学と向き合う時には、常に聖書の中心的内容によって成立までに至った論理的筋道を確認することが要求されるべきだと思います。

 

神学の暴走は、聖書の内容から神学を切り離され、一度形式化されたことを忘れ、新たな権威を持ち始めることから起こるからです。

 

激物につき、取り扱いを注意しなければなりません。

 

以上踏まえたうえで、神学は下に図の様に位置付けられるべきだと考えます。

結論としましては、神学とは、聖書の中心的内容によって常に反省が求められる、限定的命題とします。

 

少々小難しい話になってしまいましたが、神学から聖書を厳密に学ぶうえで、この知識は最低限知らなければならない予備知識、いわばワクチンです。

 

もしもこの神学の構造を理解しないままで、聖書を触れ回る者がいるならば、その人は専門的知識を持っていないゾンビですから、近づかない方が良いと思います。

 

3.「聖書を読む上で必要な神学2選」

今回は聖書を正しく理解するうえで、最低限必要な神学を2つ取り上げたいと思います。

 

神学は聖書を読むうえで必須ですが、良い神学と悪い神学とがあります。

 

良い神学を知らないと、正確に聖書を自分に適用することが出来ませんので、聖書を読む意味が無くなってしまいます。

 

悪い神学というのは、聖書の言葉を理解する目的ではなく、聖書の言葉を自らの目的の為に再利用するベクトルを持っているものです。

 

しかし、聖書や神学の知識が全くないとなると、その様な悪い神学を見抜くのは至難の業であります。

 

ですから、神学と向き合うときには、ある程度、予め知識を身に着ける必要があるでしょう。

 

これから紹介するのは、およそ2000年あまりの教会史において、正当と認められた、神学の域を超えて教義にまで昇華した神学であります。

 

成立まで長い時間をかけ、すったもんだありながらも、聖書から正しいと主張できる神学として、正統的な教会が認めているものなので安心して参考にしてください。

 

1.三位一体

三位一体とは、神とイエスの関係を論理的に把握しようと試みた神学です。

 

旧約聖書における一貫したテーマは「神は一つ」であるということです。

 

所謂「啓典の民」と言われている、ユダヤ教キリスト教イスラム教が「一神教」であるされている所以と言えるでしょう。

 

旧約聖書中で起こるほぼすべての出来事が、神の単一性を主張する為のものでした。

 

しかし、新約聖書には、神の単一性を一見否定しているかのような記事があるのです。

 

エスは聖書によれば神と扱われていますが、イエスは神を父と呼び礼拝しています(マタ26-39等)。

 

また、イエスは神と暗に自称していますが、人としての性質を保持していることを示す記事もあります(マタ8-20、マル2-10、ルカ5-24,ヨハ3-13等)。

 

果たして、完全である神が同時に不完全な人間であることはあり得るのでしょうか。

 

2世紀頃の教会は聖書の矛盾とも言える、このパラドクスを説明しようと試みました。

 

神学者達は主に二つのベクトルで三位一体を説明します。

 

「存在性」

三位一体は、神は実体において「父」「子」「聖霊」の3であり1である。また1であり3であるという性質を永遠に保有すると考える神学です。

 

聖書は、神という存在そのものが、永遠に、「父」「子」「聖霊」という互いに融通不可能な形で3つに明確に区別されるが、しかし調和しながら1を成していると教えています。

 

教会は当初、父なる神を優位に置き、子なる神であるイエスは父から由来する存在であると、なんとなく考えていました。

 

これは後に主従主義と言われますが、そうなると父なる神と子なる神が同格ではなくなるので、多神教と本質を同じくすることになることが懸念されます。

 

また神は役割に合わせて3つの姿に変えることが出来るという「モダリズム」と言う異端的な説明をするものも現れました。

 

しかし、モダリズムで神を説明しようとすると、神の3つの位格の存在性を説明することができません。

 

その様な神学的混乱から、聖書の教理を護教する為に、神は3であり、1であるという本質を、存在性というアプローチで明確にする必要が生じたわけです。

 

その結果、提唱されたのが「三位一体」でした。

 

三位一体は、聖書の救済論(人はどのようにして救われるのかを論じた分野)からよく論じられます。

 

聖書の内容を見ると、「神でなければ人は救えないが、人でなければ死ねない」という公理を導くことが可能です。

 

聖書全体を貫くこの主張を保つには、「3であり1である」という神の存在性のバランスをどうしても崩すわけにはいきません。

 

神の救いは、神が人となってこられ、人間の罪の呪いを人間として背負って死んだからこそ成立するからです。

 

神は人を救うために人間という存在になりました。

 

それは神であるがゆえに、人間を救う資格を持つ、唯一無二の存在だからです。

 

ここで、神に人間性の必要が生じました。

 

しかし、依然として神の権能を保持しながら人となるということは、別のものとして遣わされる必要があります。

 

即ち、神は遣わし、遣わされたということです。

 

ここに、父と子の区別がうかがえます。

 

また、神は自身の救いを受け入れた者の救いを成就させるために、神の聖なる霊でもって人間の内面に存在しています。

 

俗なる人間を、聖なる世界へ導くためには、聖なる存在として扱う必要が生じるからです(レビ19-2b)。

 

聖である神が、俗なる人間の内に内在するには、やはり遣わされる必要があります。

 

これが所謂「聖霊による証印(エペ1-13、2コリ1-22)」です。

 

この様に、聖であり無限である神を、神と扱いながら、有限であり、俗なる世界に生きる人間との接点を持っているとする聖書の主張から「存在論的三位一体」を論証することが可能です。

「経済性」

「三位一体」は、神は「父」「子」「聖霊」の3つの位格によって異なる役割を持っていると説明しています。

 

神は、役割によって3つに区別されているわけではありませんが、3つに区別されているという前提から神の「経済性」を論じることが出来ます。

 

人間の目線から説明すると、神が存在として異なる性質を持っているからこそ、人は神と接することが出来るということがうかがえます。

 

神は聖であり永遠です。故に俗であり有限な人間とは、本来は接点を持ちません。

 

聖と俗は決して交わらないし、無限であることと有限であることは矛盾するのが道理だからです。

 

神の性質を保ちつつ人の救いを達成する為には、人間の目から見て矛盾した救い主が必要です。

 

聖でありながら同時に俗であり、且つ無限でありながら有限である存在が、神と人間とを繋ぐ接点として仲介しなければなりません。

 

その必要に応え、神でありながら人間になったのが「イエスキリスト」です。

 

結果、キリストは有限なる人間の限界に留まったので、神による庇護を必要とするようになりました。

 

故に、依然として神としての権能を行使し、キリストを導く役割が必要でした

 

それを担ったのが「父なる神」です。

 

人類の救いや復活は、神が権能によって承認されることなしには成し得ません。

 

そして、キリストが受難を達成した後に、人類との接点を失わず、救いを実現へと導く役割が必要です。

 

その役割を担ったのが「聖霊」です。

 

ここに、それぞれに適当な役割を見出します。

 

第一位格である父なる神は、「神としての性質と力を保持しつつ、子なる神を遣わす」役割をもっています。

 

第二位格である子なる神は、父なる神から「人間の身代わりに裁かれる」役割を持って被造世界に遣わされました。

 

そして、「子なる神と父なる神の力を被造世界で実行する」役割を持っているのが第三位格の聖霊であると言えるでしょう。

 

これが、キリスト教の救済論から見た神の経済性です。

 

それぞれが違う役割を持ちながら、互いに能動的に「人類の救い」という一つの目的でもって調和しているのがうかがえます。

 

三位一体の経済性に見られる役割分担は、すべて愛によるものです。

 

信徒はその愛の交わりの中に招かれています。

 

つまり、1であり、3であるという聖書の論理的矛盾は、「愛」という超論理で初めて理解可能であると言えます。

 

 

2.信仰義認説

信仰義認とは、人が救われる為の条件を論理的に把握しようと試みた神学です。

 

この神学も、カトリック教会への反論から生じたものあります。

 

プロテスタントプロテスタント(抗議)たる所以となっている神学と言えるでしょう。

 

12使徒率いる初期教会は「異なった福音」の登場によって、「救いは行為によらない」ことを確認しましたが、これは信仰義認をネガティブに言い表した宣言であります。

 

故に、信仰義認の概念自体は初期教会からあったと言えるでしょう。

 

一方、中世の教会は、お寺の修繕費問題の解決案として「お札を買えば救われる」と贖宥状を触れ回っていました。

 

これに激しく抗議したのが宗教改革マルティン・ルターです。

 

ルターは使徒達とは逆に、ポジティブに「人は〜によって救われる」と論じています。

 

彼は2つの側面でキリスト教の救いの条件を神学しました。

「恵み」

信仰義認説において、人は「恵みによって救われる」と説かれています。

 

ここでいう「恵み」とは、救いのすべてを神に依存するという意味での恵みであり、他力救済を指し示す概念です。

 

聖書の救いとは、始原も、過程も、成就も全て神に依存すると教えています。

 

当時カトリックの説いていた救いは、人間の自力を要求する類いのものであり、救済の為に人間の努力を条件とするもので、宗教改革以前から教えられていました。

 

教会内に潜在的にあった自力救済の考え方が、教皇の権威によって発行された贖宥状の出現によって顕在化したということですね。

 

対してルターは、主にローマ人への手紙から神の「恵み」を強調しましたが、その前に、人間は全人的に堕落していると論じています。

 

「「罪」とは、聖書においては、からだが行う外的な行いだけのことではない。外的な行いへと促し、動かすものすべて、すなわち、心の底とその全力とを指す。だから、「罪を行う」ということばは、人間全人が罪に堕ち、罪を行うという意味でなければならない」(ローマの信徒への手紙序文)」

 

彼が、全人的堕落を信仰義認の前提としているということがわかると思います。

 

要は人は心において堕落し、行いの動機自体が汚れているので、誰も神の要求に達しえないということですね。

 

自力で神の要求に達し得ないということは、自力では神の裁きは免れません。

 

自力で神の裁きを免れないということは、自力救済は不可能であるということであります。

 

聖書の救いは、始原的に言うのであれば、神に罪と定められないことだからです。

 

つまり、神の「恵み」に寄り頼むほか救済の道は用意されていないということになります。

 

故にルターは、恵みが、神に義と認められる条件であるという前提に立っているわけです。

 

「だからこそ、恵みは、私たちが神の前で完全、十全に義と認めらてるに十分な働きをなす。~このようにして、聖パウロが第七章ではまだひとりの罪人としてのおのれを非難しながら、第八章では、賜物や霊が(人間において)不完全であっても、キリストにある者は罪に定められないと言っているのを、あなたは理解できよう(ローマの信徒への手紙序文)。」

「信仰」

信仰義認説において、人は信仰によって救われると説かれています。

 

これはカトリックの行いによって人は救いを得るという「行為義認」とは反対の神学です。

 

今ほどではありませんが、16世紀当時のローマカトリックは、「善行」をことさら強調していましたが、ルターは「信仰」を強調しました。

 

そして、当時の教会の善い行いのあり方を否定し、神に認められる行いは、如何なる場合においても信仰に基づくものであると論じました。

 

「祈祷、断食、寄進など、あれやこれやの行いを行って、世人の前には一見善い生活を送っている人々がたくさんいる。けれども、そのように彼らが行っていることに、神に喜ばれているという確信がはたしてあるのかと尋ねるならば、彼らは、いや、自分たちにはわからないとか、疑問だとか答える。~これらの行いは、すべて信仰の外で行われている。だから、それらの行いは無価値であり全くの死物である(善い行いについて)。」

 

聖書的根拠としては、「信仰に基づいていないことは、すべて罪なのです(ロマ14-23)」を挙げています。

 

彼は、信仰に基づかない行いはいかなる行動も無価値であり、信仰に基づく行動は「藁くず一本を拾い上げるような些細な事柄であっても、その行いは善い行いである」としました。

 

その上で、人が神に義と認められ救われるのも、善行の様な行為ではなく「信仰」によるのだと主張したのです。

 

「聖パウロは第三章(20節)でこの事を意味して「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」と言っている。だから、行いをもって恵みへの備えをすると教える論争家や詭弁家どもは誘惑者であることを、あなたは今や分かるであろう。~だが聖霊は、彼(パウロ)がまえがきで言っているように、イエスキリストを信じる信仰において、その信仰とをとおしてのみしか与えられない。~ここからして、信仰のみが義とし、律法を充たすこととなる(ローマの信徒への手紙序文)。」

 

さて、今回紹介した2つの神学は、聖書の最も基本的な主張を厳密にしたものであります。

 

故に聖書を読むうえでの予備知識的な神学であると言えるので、小難しいですが覚えておいて損はないと思います。

 

4.「まとめ」  

「広い意味での神学」とは、聖書の厳密な把握である

「狭い意味での神学」は、教義などの形式とは区別されるものである。

「三位一体」とは、愛と言う超論理でもって始めて論証可能な神の本質を示した神学である。

「信仰義認」とは、神の恵みの業に寄り頼むことのみが唯一の救いであることを論証した神学である。

 

「ご紹介」

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