聖書の名言 「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1章1節)
こんにちは、来栖川クリスです。
今回は聖書の名言である「はじめに神が天と地を創造された。」の内容を、キリスト教伝道者が分かりやすく解説していきます。
本記事は、聖書のことばにすこしだけ触れてみたいと思っておられる方必見です。
聖書を読むうえでの大前提となる世界観とは、一体何なのかを簡単に知ることができる内容となっておりますので、是非ご利用ください。
「はじめに神が天と地を創造された。」という聖書に一番最初に書かれているこの文章は、聖書の世界観を最もよく言い表しています。
たった四つの「はじめに」「神が」「天と地を」「創造された」という言葉 で構成されたこの一文は、およそ文章としては、おそらく世界中で最も読まれ、また人々に影響を与えたものと言えるでしょう。
何故なら世界で最も読まれている本、聖書の一番初めに書かれている一文だからです。
この言葉は一見大雑把で、シンプルですが、これ以上ないほどに洗練され、考えれば考えるほど祝福のある言葉なのです。
今回は、この文を構成する四つの言葉、「はじめに」「神が」「天と地を」「創造した」というこれらの言葉を逆さまに「創造した」「天と地を」「神が」「はじめに」と言った具合に、それぞれの言葉が持つ意味を、一つ一つなるべくわかりやすく解説したいと思います。
「目次」
「ご紹介」
1.「創造された」
「初めに、神が天と地を創造された。」先ず「創造された。」という言葉に注目していただきたいと思います。
聖書の一番最初に記されている、このことばが書かれた時、様々な宗教、神話がすでに提示されていました。当時の世界の中心は中東です。
「メソポタミア文明」と人類歴史で位置づけられている、その時期その場所において、この言葉は叫ばれました。
古代メソポタミアでは多神教が主流で、日本でも有名な、創作物にもよく用いられるエジプト神話はもちろん、後に西洋のオカルトや占星術にその概念が引き継がれるバビロニア神話等、様々な世界観が乱立していました。
それらの古代中東神話に共通して言えるのは、人や自然に対する神格化です。太陽や月、星、そして王などが礼拝の対象としてみられていました。日本の神話も同様ですよね。
そのような世界観が常識として定着しているただ中で、この「創造した」という言葉は、人や自然は礼拝の対象となるものではなく、即ち「神」ではなく、それらは「創造された」ものであることを宣言しているのです。
古代中東において叫ばれたこの言葉は、現代の、ここ日本に生きる我々日本人にも向けられている言葉であると言えます。
我々日本人は、神羅万象すべての物に価値を認めることのできる素晴らしい民族です。
故に、自然と共存し、そこに価値を認め、そして時にそれを神と呼びます。
自然というものから神というものを感じるその豊かな感性と、霊感という部分においては、素晴らしいと思います。
しかし、信仰の本質についての理解は、世界に大幅に後れを取っているのです。
しばしば日本人は自身を「無宗教」と主張することがありますが、その主張が通用するのは、この日本という国だけと言っても過言ではないでしょう。
というのも、日本以外の国においては、何かを信仰しているということを認めることが当たり前だからです。
日本人の信仰についての理解が遅れている理由の大きな要因は、現代日本人の宗教観にあると思います。
日本人は、自分にご利益があると思うものに関しては信じ、自分にご利益が無いと思うもの関しては、たとえそれが真理であると考えられるとしても、受け入れない傾向にあります。
また、それがまるで、神と呼ばれるものを信じるときの、あたりまえな態度として定着しているのです。
故に、正月には神社にお参りをし、結婚式は教会で催し、葬式はお坊さんを呼んで弔っていただくというようなことが当たり前の常識として浸透しているのでしょう。
それにもかかわらず、自分たちは「無宗教」であると主張するのです。
これが信仰の本質たってみた日本人の宗教観であり、この様な体系に基づく信仰を「ご利益信仰」と言います。
このような信仰は、はたから見るとすごく不自然に見えましょう。
海外の人が「信仰」というと、ニュアンスが全然違います。
と言いますのも、海外において、信仰というのは、「手を合わせるものに対して全面的に信頼する」という意味が強いからです。
そして、それが本来の信仰という言葉の意味でもあります。
私が信仰の理解について、日本は世界に「後れを取っている」とあえて申しましたのは、日本人の信仰に対する理解は、海外では通用しないということよりも、信仰しているものを本質的には認めず、定めないという風見鶏的な態度が正しいと思っていることが、真実、或いは、真理を遠ざけてしまう可能性があるからです。
日本人の「無宗教」と主張している方とお話すると、直接的に言われることはありませんが、私は考え方において「すべて中立である」という主張がその背後に隠れているようなところが言葉の端々から伝わってきます。
その様な主張を、「私は無宗教だ」と言う事によって、暗に表したいという事でしょう。
この態度は、正しい意見も、間違っている意見も吟味することができる中立的立場で、一見賢明に見えますが、「自分は必ず正しい判断ができる」という考え方が根底にあるので、むしろ「無宗教」であるとする態度は、独善的で偏った考え方になってしまう危険性があります。
或いは、自分の思想的立場をを明らかにしたくないという弱さの裏返しであるとも言えるでしょう。
自分が本来信じているものを認めず、あくまでも客観的であるという予防線を張ることによって、本来自分が信じているものを否定される可能性を恐れている部分も、根底にはあると思います。
この考え方は、他人の宗教観を極端に遠ざけてしまい、真実や真理から遠ざかってしまう可能性がある為、私はあえて「遅れている」と申し上げました。
人間は常に何かを信頼して生きています。
何にも依存しないで生きられる人間はこの世に一人もいません。
ある人は神と呼ばれるものを信頼し、礼拝します。
またある人は他人の考え方を信じ、参考にして賢明に生きようと努めます。
神と呼ばれるものも、他人も信用しないというのであれば、それは自分自身を信じているのです。
これが信仰の本質から見た人間の本性なのです。
誰しもが、何かを信仰し、何かを神としています。
また、自分が拠り所にしているものに、何かしらのかたちで、礼拝しているということができるでしょう。
自分が、魂の奥底で信頼を置いているモノ、それがその人にとっての神です。
つまり、信仰という言葉が当てはまらない人は、この世には存在しないということが可能でしょう。
そして実は、信仰すると言ったときに、「神を信じているか」、「信じていないか」という二択ではなく、「何の神を信じているか」という一択であるということも、見出すことができます。
日本人の多くは、この信仰の本質を理解していないので、自分は何かを信仰しているということを認めようとはしません。
海外の人たちは、潜在的に信仰というものを理解しているので、本質をとらえ、また信仰する対象に、ある程度信頼を置いているからこそ、自分はこれを信仰していると正直に言い表すことができるのです。
故に海外に行くと、何かを信じているという前提のもと、「あなたは何の神を信じていますか」と、しばしば聞かれるわけですね。
日本人は誇らしげに私は「無宗教」ですと言ってのけますが、それは不自然なことであり、要は質問に答えていないだけなのです。
古代中東に生きた人々も、現代に生きる我々も、すべての時代のすべての人が同じように何かを信仰して生きています。
当然我々も例外ではありません。
だからこそ、ここで取り扱っている「創造した」という言葉は、現代を生きる日本人にも向けられている言葉であると申しました。
聖書の「創造した」という言葉は、古代であろうと、現代であろうとも同じ様に、人や自然は礼拝の対象ではなく「創造された」ものであるということを宣言しているのです。
すべての時代の、すべての人類に向けられているこの宣言は、いったんあなたを立ち止まらせ、あなたがたとえ知らずとも信仰している存在が、本当に信頼されるべき「神」なのかを考えさせます。
また同時に、創造された人類が、本当に礼拝するべき存在、即ちすべてを「創造した」本当の神である、「全知全能の神」に心を向けさせる言葉なのです。
あなたが意識せずとも信頼し、寄り頼んでいるもの、即ち「あなたの神」について考えてみていただいて、本当にその神はあなたの全身全霊を委ねる価値があるのか、あなたを救うことのできる存在なのかを、この「創造した」という言葉をもって熟考してただきたいと願います。
さて、「創造した」という言葉を見ていきました。では、何を創造したというのでしょうか。
「天と地を」です。
2.「天と地を」
次に「天と地」という言葉に注目していただきたいと思います。
「天」と「地」を、この表現は両極のもの指して 全体を意味する修辞的な文学表現であります。
つまり、ここでの意味は「この世界のすべて」という事になります。
この様な文学表現は、聖書でよく用いられます。
例えば、この後2章に入ると、あの有名なアダムとエヴァのお話の中で、エヴァが禁断の果実に手を伸ばす場面が描かれますが、その場面にもこの表現は用いられています。
その禁断の果実がなっていた木の名前が「善悪の知識の木」と言いますが、ここでも「善」と「悪」という両極を指して、全体を表現しています。
即ち、ここでは、善と悪についての知識という事だけでなく「すべての知識の総体」という意味です。
つまり「天と地を」というこの言葉は、「神はこの世界のすべてを造った」という聖書の世界観を説明している言葉なのです。
文字通り、この世界の「すべて」をということです。
当時礼拝されていた太陽や月、星や人、又、時間という概念ですらその範疇に入ります。
この世のすべてを造った全知全能の神は、すべてを超越していることを、「天と地」という言葉をもって表現しているのです。
現代において、この言葉はどのようなことを訴えかけているでしょうか。
現代に話を移したいと思います。
この世界の多くの人が、特に無神論者の方のほとんどが、偶然という力が、偶然を呼んでこの世界のすべてが存在しているという世界観に生きています。
つまり、この世界は「偶然」という何にも治められていない気まぐれな力が、ある時、急にこの世界を生むきっかけとなったと信じているのです。
即ち、先程の話を踏まえるならば「偶然」という神を信仰していると言ってもよいでしょう。
ハッキリと偶然によってこの世界が始まったと考えを定めてはいなくとも、ぼんやりとその様に考えている人が多いような気がいたします。
そのような考え方の代表格として、ビックバン理論などが巷では常識ですよね。
ここではその様な科学的な理論に対して反論するつもりはありません。
何故なら、聖書の世界観、即ち創造論の立場から、この世界の始まりについて科学的な理論と対決するならば、結局のところ無から有の創造は可能なのか、という話になってしまい、悪魔の証明を要求するような、不毛な水掛け論になってしまうからです。
無からの創造について、人間がその知識についてすべてを知ることはおそらく不可能でしょう。
人間にその知識を極めることは許されていないと思います。
また、聖書はあくまでも宗教的な目的をもって書かれている書物でありますので、あくまでも宗教的なアプローチでもって論じていきたいと思います。
もしも、この世界が「偶然」によってできたとするならば、それは、我々人類も偶然によって生まれたとすることです。
その様な世界観においては、我々人類は自分たちの存在理由を、決して見出すことができません。
そして、偶然を信じているならば、「あなた」という一個人の存在理由をも見失なってしまうのです。
人類として、共通の存在理由が見いだせないのであれば、その中の一個人であるあなたの 存在理由も見出せないでしょう。
「自分は何のために存在しているのだろう」
この誰もが一度はぶつかったことのある問いに対し、誰もが自分なりの考えを持っていると思います。
ある人は、仕事にその答えを求めます。
一生懸命働くことによって、他者に認められ、そこに自分の存在意義を見出し、社会の中で自分の立ち位置を確保して、取り敢えずの充足を見出そうとします。
またある人は、快楽にその答えを求めます。
人生には大した意味は無いとし、自分の快楽ををひたすら満たすために奔走します。
自分の人生の意味をを巡って様々な人が、様々な考え方で「自分は何のために存在しているのだろう」という混乱を必死で凌いでいます。
しかし、その一方、心のどこかで何かがおかしいと思っている方が多いのではないでは無いかと思うのです。
コロナウィルス騒動は正にその様な、人の本性をあらわにしました。
自分の仕事に答えを求めていた人は、仕事が奪われたとき、一歩踏みとどまって、自分の存在理由について 考えることを迫られたことでしょう。
快楽に答えを求めていた人は、強制的に動きを制限されることで、今まで大して目を留めていなかったであろう人生の意味について、考えざる終えなくなったことでしょう。
しかし「偶然」という世界観の中に生きている限りは、カンフル剤の様に一時を凌ぐための考え方は導き出すことはできるかもしれませんが、納得のいく答えは見つけることはできないと思います。
自分の存在すら偶然によって無意味なものとしてしまっているわけですから、当然と言えば当然かもしれません。
結局人間は、自分の始まりをどの様に理解しているかによって、生き方が変わってきます。
もしも、自分はビックバンという原初の世界に「偶然」起こった大爆発によって、「偶然」できた宇宙の中に、「偶然」形成された地球の、「偶然」生じた生物の突然変異によって、その進化の過程で「偶然」生まれた人類という種の中の一個人である。
というように、自分の始まりを説明するのであれば、はっきりとそう認めては いなくとも、本質的には無意味な生き方をすることになります。
あなたを生み、育んでくれた母という存在や、あなたを何時も助けてくれる親友という存在、また、常に傍らに寄り添う妻や恋人という存在に対してですら「偶然そこにいる」、という無意味な説明をするほかないのです。
この世界が無意味に始まったとすれば、その後に生じるどんなものも無意味であるということになります。
人間が、ロボットの様な感情の無い無機質ものとして、この世界に存在していれば、そのような解釈で生きてゆくことは可能でしょう。
しかし、実際、人間はその様な生き方に耐えることはできないのです。
だからこそ、 占いやオカルト、スピリチュアル的なものに興味をしめし、身近な人との相性や、運命の人はいつ現れるのか、みたいなことを知りたくなるのでしょう。
何にも起因しない「偶然」という気まぐれで、つかみどころがない世界観の中で答えを求め、生きようとするのであれば、結局は儚い生き方を選び取るほかないということが、この現代人の姿から伺えます。
偶然という「神」はその様な生き方しか、人類に齎しません。
偶然は何も保証しません。虚しい世界に人をを閉じ込めてしまうだけなのです。
聖書の世界観は、この様な世界観とは真逆の立場をとっています。
繰り返しますが、「天と地を創造した」ということは、全知全能の神が「すべてを創造した」ということです。このすべてには私やあなたも含まれています。
つまり、全知全能である神が、天にあるものも、地にあるものも、私やあなたも、その英知をもって、計画された目的の為に創られた。
これこそ、この「天と地を」という言葉に集約されているメッセージなのです。
全知全能の神がもたらす世界観には、「偶然」という幻想が差しはさまる隙がありません。全てが、神の計画の中で起こります。
聖書の世界観に基づけば、あなたの職場で出会う人や、あなたの親友や、あなたの両親や、あなたの夫や妻、恋人との不思議な出会いには意味があると言えます。
当然、あなた自身の存在にも意味があると言えますね。
神があなたを造られたならば、それは、存在そのものが神の意志の表れだということなのです。
自分には何ができるか、できないかという問題も大事なことではありますが、先ず覚えなければならないのは、あなたは存在しているだけで意味があるということでしょう。
或いは、あなたの身の回りで起こる事も、すべてに意味があると言えます。
たとえそれが悪い事であっても、最終的には、どんなことでもあなたにとってメリットになります。
すべてが神の計画のもとに収斂しているからです。
神は人に、悪い計画や悪いものを与えようとは決してなさいません。
何故なら、われわれ人は神に愛されるために造られたからです。
それは神を信じ、聖書の世界観に生きる人には良い事しか起こらないという意味では無くて、どの様な場合においても、神の愛の計画のもとに置かれているということを認識することによって、一貫して喜ぶことができる希望が常にあるということです。
神の計画が愛であるということは、この聖書の世界観において神が創造されたとされる、自然界の秩序を見れば明らかです。
太陽は絶妙な光と熱をもって地球を照らし、温めます。
海は空に雲を生じさせて、雨を降らせます。
雨は作物に養分を与え、その実を実らせます。
全ては神が人に対して綿密に計画されたことです。
この世界観によるならば、何一つ偶然によるものは無く、すべては神によって造られたということができます。
そこにはもはや混乱はなく、むしろ一貫した、理性的且つ秩序ある人間本来の生き方があります。
「天と地を」という言葉は、そのようなメッセージを我々に伝え、人を本来あるべき生き方に導き、本来自分の存在理由を求めるべき存在である、全知全能の神に心を向けさせるのです。
もしも、自分の存在理由を巡って思い悩み、その答えを探しておられるのであれば、先ず、あなたは「偶然」によって生じたのか、或いは、神と呼ばれるような存在に意図されて「造られた」のか。
言い換えれば、あなたは「無意味に生じた」のか、「意味あるものとして造られた」のかを考えていただきたいと願います。
そのうえで、もしも自分が無意味に生まれたとは思えないというのであれば、「天と地を」という言葉が示す聖書の世界観に、その答えを探してみてはいかがでしょうか、「偶然」という世界観の中に答えを探し、彷徨うよりもよほどいいと思います。
もしかしたら、神に造られた存在であるが故の、人類全員に共通する普遍的な答えだけではなくて、あなたがなぜ、個人的にそこに存在しているのかという答えをも、 或いは見出すことができるかもしれません。
さて、「天と地を」という言葉を見てまいりました。では、誰が天と地を創造したのというのでしょうか。
「神が」とあります。
3.「神が」
次に、初めに「神が」天と地を創造した、「神が」と書かれていることに注目していただきたいのです。
聖書の原語である古代ヘブライ語においては、少しニュアンスが違うものの、日本語訳では意図的に単数形が用いられています。
ここに注目すべき点があります。他の神話によく見られるような「神々」という複数形をあえて避けて書くことによって、「神は一つ」であると表現しているのです。
聖書が書かれた時代、古代メソポタミアの創造神話において常識となっている考え方は、「神々が」各々の領域を悲観的な目的で造り、また、それを支配し、人間は神々の手に負えなくなった仕事の負担を減らす為に奴隷として造られた、という天地創造に対する消極的なものでした。
この考え方は、当時一般的であった、王を神の代理人とする古代の神権政治の国策的なプロパガンダとして、これらの神話が用いられていたということが影響していると思います。
宗教的な目的というよりかは、政治的目的が強かったからこそ人を縛り付けるような考え方が 一般的でったのかもしれません。
しかし聖書は、その様な世界観とは逆に、人の力など借りる必要のない全能の「唯一の神が」、人間の為にこの世界のすべてを造った。という天地創造に対する積極的なメッセージを表わしています。
唯一であり、全能の神が、即ち、何にも依存しない絶対的な存在が、この世のすべてを理想的にデザインし、造ったというこの世界観は、今ではどこか当たり前に聞こえてしまいますが、古代オリエント世界においては特に画期的な世界観であり、唯一無二でした。
つまり、この「神が」という言葉は、当時、今よりも多くあったであろう、無数の人を縛り付けている「神々」と呼ばれるものに対して、唯一、絶対的な存在の聖書の神は、その様な神々の一部ではないと明確に区別しているということです。
そして、それらを神とは認めないということも暗に表わし、神の主権を示しています。
この言葉が、現代生きる我々にも同じメッセージとは何でしょうか。
この世界は、いわゆる啓典の民と呼ばれる、一つの神を信じている人たちが世界人口の半分を占めていると言います。
これらの人々は、同じ神の啓示による教典の一部を共有しているという事から啓典の民と呼ばれています。
今取り扱っている、旧約聖書の内の創世記の「神が」という言葉が、これらの人々に共通して信じられているからです。
つまり、数字を額面通り信じるのであれば、世界人口の半分以上が、「神は唯一である」と信じていることになりますね。
その様な現代の世界において、「グローバル化」という言葉が叫ばれて久しい昨今、「多様性」というスローガンのもと、思想をも一本化しようという動きが活発になり、世界が本格的に一つになろうと動き出しています。
そのような社会の流れと呼応するように、宗教の世界でも、「宗教多元主義」という言葉が流行しています。
この考え方は、すべての宗教には共通する思想が認められ、本質的なところで、同じものを認めており、同じ神を礼拝している、故に、この世の諸々の宗教と呼ばれるものは、互いに尊重することができる可能性があるので、最終的には一本化することができるという考え方です。
平たく言えば「いろいろな神があっていいじゃない」という考え方です。
これは、多様な考え方の中で一致を目指す現代的な考え方であると言えるでしょう。
この宗教多元主義が目指す宗教の一本化には、この「神が」という聖書の言葉を信じている、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の所謂「一神教」も含まれているのです。
しかし、宗教多主義を信じる人々、或いは日本人の大多数を含め、一神教への理解が乏しい人は、その本質を大きく見誤っています。
特に多神教的な背景がある場所や、日本においては、「神は一つである」というと何か寛容ではないイメージを持たれる方が多いような気がいたします。
この日本においては「和を以て貴しとなす」という 言葉があらわす日本人の、他者を認め、秩序を保とうとする素晴らしい精神が大きく影響しているのではないかと思われます。
その様な日本人特有の精神に基づけば、「神は一つである」という思想は、他者を認めない不寛容で身勝手なものであり、時には争いを生む温床となる。と考えられてもおかしくは無いと思います。
しかし、実際はそうではありません。むしろ、これ以上寛容で、協調性があり、秩序のある真理はほかにありません。
どうか、一神教の本質を表わす、この「神が」という言葉について学んでいただいて、皆様の誤解を少しでも解くことができたならばと思います。
「神が」というこの言葉こそ、その一神教の本質が良く表れているのです。
そもそも一神教というのは、「他の神を信じない」という絶対的な信念があります。
それは同時に、全知全能の神が、その完全な叡智に基づいて説いた教えのみを信じるということです。
そのほかの教えは、人間から出た不完全なものであり、神が示した救いの道ではないので、他の教えは決して認めません。
神の教えを信じるということが神を信じるという事なので、神以外の教えを信じる という事は、神ではないものをを信じるということです。
神でないものを信じるということは、神を信じないという事なので、一神教の人々は、一神教であると唱っている以上、神が説いたものでない教えを信じることはできないのが道理なのです。
この信念は、全ての一神教の共通認識です。
この様な信念があるということを、先ず知らなければ一神教の本質を大きく見誤ります。
聖書に書かれている、この「神が」という言葉を信じている人たちは、「神々」という概念を認めることが教理的にできません。
他宗教から出た、如何なる考えも認めないので、宗教多元主義が目指す宗教の一本化された、いろいろな考え方が共存する世界は、一神教のあるところでは、決して実現不可能であると言えます。
また、そもそも、すべての考え方を尊重するような考え方は、他者の考え方を認めないという一神教の考え方を認めることのできる寛容さは備わっていません。
「いろいろな神があってもいいじゃん」という考え方は、一神教の信念に基づく「一つの考え方しか認めない」という考え方を、論理的に許容することができないのです。
つまり、すべてを尊重しようとする考え方も、また不寛容だということができます。
宗教多元主義は、絵に描いた餅なのです。
宗教を一本化して考え方を無理やり合わせようとしても、そこに秩序はありえません。
「いろいろな考え方があっていいじゃん」という主張と「一つの考え方しか認めない」という主張は永遠にすれ違い、対立を続けます。
これは、正にかつて「神々」と呼ばれていたものを信じていた人々に対して、ハッキリと聖書によって、「神が」と宣言された時の対立構図と本質的な部分において同じです。
かつての様々な王達が、自分たちの神々を持ちながら、他の国の王の信じる神々を表面的に認め、絶妙に政治的な均衡を保とうとしていたのと同じように、現代では互いの思想を尊重し合い、他の国々文化、宗教等を表面的に、取り敢えず認めて、世界に新しい秩序を齎そうとしています。
しかし、 ‘‘きれいごと‘‘をもとに、人は一つになることはできません。
現に昔も今も同じように争いごとは絶えません。
如何に文明が発達しようとも、歴史は繰り返すのです。
古代も現代も同じ状況であるという事ならば、聖書の宣言する、古代に叫ばれた「神が」という言葉は、同じように現代に生きる我々に訴えかけていると言えるのです。
かつて「神々」と呼ばれるものを信じていた人々に、「神が」と宣言され、全く区別されたのと同じように、多くの現代人が言う「色々な思想があっていいじゃん」という考え方に対し、「一つの思想しか認められるべきではない」と明確に区別しています。
また、この言葉は同時に「多様性」という考え方の矛盾を、暗に示していると言えるでしょう。
「いろんな考え方があっていいじゃんという」視点から、「一つの考え方しか認められない」という考え方に対して、その考え方は排他的で不寛容であるとするならば、それは、一神教信仰を否定しているので、その考え方も不寛容であるということになります。
一神教信仰を否定する考え方は、世界人口の半分を敵に回す考え方であると言えるので、秩序や協調性はあり得ません。
あるとするならば、周りの顔色を窺いあう様な、かりそめの平和です。これは今の世界の姿そのままではありませんか。
しかし人々が、聖書の「神が」という言葉に基づき、一つの神を信じるならば、そこには真の平和があります。
そのためには、それぞれが、それぞれの神々を持つこと、即ちそれぞれバラバラの希望、目的を持つことを、残念ながら先ずやめなければなりません。
偽善的な人間の考え方を捨て、平和の神を信じることができるように、聖書は「神が」という言葉をもって、明確にこの世の中の考え方とは区別しているのです。
聖書の教えは、皆さまの人生の延長線上にある教えではなく、神を信じていない人にとっては別世界の教えであると言えるでしょう。
ですから、「神が」という言葉を前にしたときの反応は二通りに限られます。
神を信じ受け入れて、以前歩んでいた道を捨て、神に応答してその道に歩むか、神を信じないで、神の示した道を拒否するかのどちらかなのです。
常に人間は選択を求められています。その責任からだれも逃れることはできません。
これを見ている皆さまは、神の示された道を、今、目の当たりにしているのです。
皆様は「神か」、世の中の様々な考え方という「神々」か、どちらをを信じますか。
人類は一つの神のもと、一つの目的、一つの考え、一つの希望を見つめた時にのみ、一致した歩みをすることができると聖書は教えているのです。
そうなった暁には、そこには真の秩序が実現するでしょう。
神がその完全な英知でもって計画し、人間一人一人を創造したということであれば、それ故に人を尊重することができます。
人は存在しているだけで、神の意志の表れであるので、そこに互いを認めるべき理由を見出すことができます。
これこそ真に人を尊重し、認めるということです。
真に人を尊重することによって、真に人と人が協調することができます。
真に人と人とが協調することができれば、真の秩序が生まれるという道理です。
この「神が」という言葉は、一神教信仰の排他性を表わすことによって、一見聞こえがいい秩序なき幻想に人を向かわせることなく、真実に基づき、真理に人を導いています。
そして人の魂に充足を与え、頭ごなしに、暴力で無理やり世界に秩序を齎そうとはせず、先ず皆様の心に秩序を齎します。
人類には一つの目的があり、一つの真理のもとに存在しているとしなければ、世界の一致はありえないのです。
この「神が」という言葉は、その様な教訓を我々に教えてくれます。
さて、では、いつ神が天と地を創造したというのでしょうか。「はじめに」です。
4.「はじめに」
「はじめに、神が天と地を創造した。」最後に「はじめに」という言葉に注目していただきたいと思います。
「はじめに、神が天と地を創造した。」ということは、「天と地」即ち「我々が存在している世界」が造られる前に、すでに神が存在したことを意味しています。
また、この「はじめに」という一言は、 神に造られた、人間の視点から見た「はじめに」であります。
他の神話や宗教がするように、人間の限界を超えたありえない視点から、どの様に神々が神として権威づけられ、その結果、世界がどうなったのかを想像しているのではありません。
人間ではその全てを推し量ることのできない絶対的な存在である「神が」、この世界の存在する前すでに存在し、この世界をはじめられたということです。
この聖書の表現から、人類としてあるべき態度を学ぶことが出来ます。
我々人類は、宗教の世界、或いは神話の世界においてこの被造世界の「始まり」について様々な説明をしてきました。
怪物の死体を二つに割いて世界を形作ったとしてみたり、卵みたいな ものからこの世界が生まれたとしてみたり、或いは、日本神話の様にこの世界の前身となる世界の様なものがあり、その世界から神々が遣わされ、この地が形造られたとしてみたりと、この世界の始まりについて様々な解釈をしてきました。
そのどれもこの世界を観察した結果、人が想像した世界です。
ある目の前の現象について考えをめぐらし、その原因をたどり想像する、因果律的な考え方において提案された世界観と言えます。
しかし、そのどれもが現代においては全く受け入れられていません。
何故なら、荒唐無稽で、非論理的な世界観として見られているからです。
基本的には、現代に生きる人の誰も、古代の神話など本気で信じている人はいません。
かといって、現代人が古代人と違って‘‘現実的‘‘なのかと言ったら、必ずしもそうではないでしょう。
現代には現代の神話があります。
古代でいう神話にあたるものを現代人はその代わりに確かに信じているのです。
その代わりに、現代では「科学」というものがその代用となっています。
しばしば、古代人は迷信深いと現代人に揶揄されますが、そんなことは無いんです。
実は、我々が常識としている科学というものも、 その本質は変わりません。
もちろん、科学によって我々は 物質的な面において飛躍的に進歩しました。
しかし科学の、目の前の現象について検証し、計算し、その原因をたどっていくという因果律的な考え方は、古代人と全く同じ発想であり、本質において同じなのです。
現代は、時代が進歩していく中で蓄積した、考える為の材料が増えているので、目の前にある現象をある程度よく説明できていてるだけなのです。
それは、一見現実的で、古代人の考えとは違って見えますが、その本質は全く変わりません。
「科学」というある種の神話が優れているのではなく、人類歴史の蓄積の恩恵を、我々現代人は受けていると言ったほうが 厳密だとは思いませんか。
「科学的根拠」というと我々はそれだけで安心するという魔法の中で日々を過ごして いますが、有名な科学雑誌に載っているような論文でも、およそ10年後にはその8割9割は覆されていると聞きます。
その点においても、かつて古代人が信じていた、現代においてほとんど支持されなくなった 宗教や神話と全く変わりません。
ですから、聖書の言う「はじめに」という言葉は、現代人にも、古代に生きた人々と同じ様に、訴えかけるものがあると言えます。
聖書の、この世界の始まりについての洞察は、そのような人間的な世界観とは、ある意味一線を画しています。
「はじめに」という一言は、人間の立場から見た「はじめに」であり、人類としてあるべき態度が教えられていると言いました。
というのも聖書は、この世界はどの様な自然現象によって始まったかについては、端的にいえば「わからない」と先ず宣言しているからです。
あくまでも地上に生きる、この天と地と共に造られた存在としての視点で、この世界の始まりを語ることによって、この世界の成り立ちのすべてについて、人間はその知識をすべては極めることはできないと敗北宣言をし、白旗を挙げているということです。
何に白旗を挙げているのかといえば、神にです。
神に白旗を挙げるというのは、この世界は、この世界が始まる前にすでに存在した、どんな概念に束縛されない絶対的存在が、その意のままに造られたものであることを認めることです。
聖書は、神を前にして、この世界に存在する一被造物である人類が、その知識について極めることができないということを先ず認めています。
いくら人類が進歩したからといっても、この世界の始まりについて、観測しようとするならば、「無」から何故「有」が生じたのか、という点で 躓くことになるでしょう。
論理的に考えて、人類にはその全てを解明することはできません。
人間がこの世界の始まりについて、知ることができると考えることこそ、神話の世界の話であり、論理的に無理な飛躍をしていると思います。
だからこそ、 聖書では、あくまでも人は神に造られたとされており、神に造られたものの目線から「はじめに」と書かれているのです。
古代に書かれた聖書だと言っても、現代においても何の変わりはありません。
この聖書の世界観は非論理的でしょうか。
私は、この世の実存的真理のすべてを解明できると考えるほうが非論理的であり、飛躍していると考えます。
非論理的でないからこそ、他の宗教や神話とは違い、今も支持され続けているのです。
因みに、この聖書の世界観は、日本人にはなじみのないものでありますが、 世界人口の半分は支持している世界観です。
「はじめに」というこの言葉は、この世界がどの様な現象によって成り立ったのかという事に第一に目を向けさせるのではなく、人類はこの世のすべてを理解することはできないということを、理解させる言葉として述べられています。
また、これを認めることが、神に造られた人類のとるべき謙遜的な態度であると、聖書は教えているのです。
同時に、神はこの世界が始まる前から存在していたと説明することによって、神はわれわれ人類には説明できない、推し量ることのできない存在であると説明しています。
そのような存在であるからこそ、すべてを委ねて信頼することができるのです。
5.「まとめ」
「創造された」という言葉は、神以外のすべては被造物であることを表している
「天と地を」という言葉は、神はこの世界のすべてを造ったことを表している
「神が」という言葉は、神は唯一であり、自立自存の絶対者であることを表している
「はじめに」という言葉は、神はこの世界が始まる前から存在したことを表している
「ご紹介」
1.サムネイルの絵
サムネイルの絵のタイトルは、創造論曼荼羅(そうぞうろんまんだら)です。
曼荼羅(まんだら)とは、主に西アジアの宗教に用いられている、教理体系を模式的に示した円図形のことをいいますが、この図には聖書の教理に基づく原初の世界の様子が、見える化されています。
旧約聖書、創世記1章~2章に示されている、人類堕落前の理想的な世界を表現しました。
聖書を読む際の助けとなれば幸いです。
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