バイブルバイブレーション

聖書の言葉で震えるような体験をあなたへ

聖書の名言 「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」(創世記1章2節)

こんにちは、来栖川クリスです。

 

今回は聖書の名言である「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」の内容を、キリスト教伝道者が分かりやすく解説していきます。


本記事は、聖書のことばにすこしだけ触れてみたいと思っておられる方にオススメです。

 

聖書を読むうえでの大前提となる世界観とは、一体何なのかを簡単に知ることができる内容となっておりますので、是非ご利用ください。

 

「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」

 

この言葉には、派手さが無く、一見すると寂し気であり、漠然としていて、私たちに何の関係もない言葉に見えますが、多くの教訓があり、多く祝福が込められています。

 

ざっとこの文章の聖書における位置づけと、理解する上での注意点を確認した後、文章「地は茫漠として何もなく」、「闇が大水の上にあり」、「神の霊がその大水の面を動いていた」といった具合に3分割してなるべくわかりやすく解説していきたいと思います。     
   

「目次」

  1. 「地は茫漠として何もなく」
  2. 「闇が大水の面の上にあり」
  3. 「神の霊がその水の面を動いていた」
  4. まとめ

「ご紹介」

  1.  サムネイルの絵
  2.  聖書をお求めの方へ

 

先ずこの文章の聖書における位置づけを、少しだけ確認いたします。

 

今から説明することは、このことばを理解するのに非常に大事なことなので頭の片隅に置いておいていただきたいと願います。

 

「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」

 

これは、神がこの世界を理想的に創造される前の、地上の状況を説明している言葉であり、聖書の神の天地創造物語の内の一文です。

 

この文章のすぐ後に、神が人間の為に、天地の創造に取り掛かる場面が描かれます。

 

神がこの地を形作る前の、荒涼とした大地の状況と、そこに今まさに介入しようとされている神自身の様子を、我々人類に伝えているのです。

 

「神がこの世界を理想的に創造される前の、地上の状況を説明している言葉」という文脈が、この文章を理解するうえで非常に大切なことです。

 

男子は、女子が台所に入り、エプロンを締める姿を見ると、グッとくるものがあると思いますが、この箇所は、神が世界を作るためにエプロンを締めている姿を描いています。

 

要は、そのような神の姿に筆者の強調したいところがあると言いたいわけです。

 

聖書はもともと古代中近東の言語、ヘブライ語で書かれている書物でありますけれども、日本語でこの箇所を読むと、無機質に状況のみを説明しているように見えます。


しかし、ここで述べられていることは、ただ単に神が創造に取り掛かる前の原初の世界がどうであったかという状況説明だけではありません。

 

読み手にとって必要な、精神的な意味や、宗教的要素が含まれています。

 

聖書の言葉はすべて、人に対して語られているものであり、あくまでも人に必要なテーマへと向かいますが、この箇所も同様です。

 

原文のヘブライ語で見てみると、詩的表現が施されて、非常にエモーショナルな一文であることが分かります。

 

聖書の言葉は、紙も、印刷技術もない古代に叫ばれた言葉でありますので、その教えを記憶し、共有する方法として、詩として、口伝で共有する方法しかありませんでした。


詩とすることによって、聖書の教えは代々教えられ、記憶され、守られてきたのです。

 

また、詩的表現が用いられている最大の理由は、読み手の感情に訴えかける為でした。

 

歌手が自分のメッセージを伝える為に、歌詞を創意工夫するのと同じように、聖書の言葉は人の心に突き刺さるように工夫されています。

 

だからこそ人の必要を満たすことができる言葉として、3000年以上昔から今まで、すべての時代の人々に用いられてきたのです。

 

今回紹介することばにも詩的表現が用いられ、人々に何かを訴えかけています。

 

ではこの一文は、どの様なことを我々に伝えているのでしょうか。

 

一つ一つのことばを取り上げ、共に見ていきましょう。

 

1.「地は茫漠として何もなく」

この言葉はこの世界が理想的に形成される前の地上の様子を表現しています。

 

日本語訳では「地は茫漠として何もなく」という直訳調になっており、単調になっていて、更に「茫漠」という誰も一度も使ったことのないであろう日本語が当てられ、小難しくなっています。

 

そして、原文では詩的表現が施されていて、とにかく「何もなかった」ことが強調されています。

 

詩的表現を生かして、簡単に訳し直すならば、「見えるものでも、形あるものでもなく」と訳すことが可能です。

 

原語では、見えるもの‘‘でも‘‘形あるもの‘‘でも‘‘といった具合に、否定のニュアンスがある接頭語が2度繰り返されていて、「無」が表現されています。

 

しばしば「無から有の創造は可能なのか」というテーマが話題になることがありますね。

 

自然科学において、或いは、物理学においては、ビックバン理論という考え方をもとにこのテーマが、今も尚研究されています。

 

論理学においては、無と有の関係性について、無とは有という概念に相対的に存在する概念であって、本質を同じくするので、実存的にそれらを語ることは無意味であると説明していたりもします。

 

しかし、人がどんなに知識を振り絞ろうとも、未だ的を得た回答は導き出せていません。

 

皆様はどう考えますか、私は、これから先もその回答を導き出すことは不可能であると思います。

 

そもそも「無」というものを何を契機に証明することが出来ましょうか。

 

このテーマは明らかに人間の理知的範囲をはるかに超えたものでありましょう。

 

しかし聖書は「地は茫漠として何もなく」というこの言葉をもって、大胆にも「無」という概念を主張して、更に神が「無から有を創造した」と宣言しているのです。

 


ただし、聖書の関心は、科学的に「無から有の創造は可能なのか」という人間の理知的範囲を超えたところにはありません。

 

あくまでも人間に必要なテーマへと向かいます。

 

ここでの聖書の関心は、人間が存在するのに必要なものが一切ない状態に、神が介入しようとしていたという点にあります。

 

神の愛の対象である人類の為に、今まさに「無」に介入しようとされていた。

 

科学的な証明をすることによってではなく、「愛」という精神的概念を通して、「無」という概念に束縛されない絶対的存在が「無から有を創造した」と宣言しているのです。

 

聖書は、無に神が介入したことを通して、神の、人に対する愛を表わしています。

 

ここで考えていただきたいのは、何故、何にも依存しないような絶対的な存在が、不完全な存在である人間の為に、この世界を造る必要があったのだろうかということです。

 

もしも、そのような絶対的な存在、即ち「神」と言われるような存在があるのなら、何も必要とはしないでしょう。

 

ましてや、人という不完全な存在の力など無用なはずです。

 

しかし聖書は、この絶対者である神が、天と地すべてを人の為に、人に相応しく創造したとしています。

 

それは親が、子供の為にあらゆるものを備えるかの如く行われました。

 

神の創造はすべて人の為に行われているものなのです。

 

愛は何かに向けられなければ、それだけでは存在しないものです。

 

神はその愛の為に、愛の対象を求めておられました。

 

故に「無」という境界を貫いて、人の為に神がすべてを創造したということが、この言葉に目を留め、次章以降に展開されていく天地創造の記事を読めばわかります。

 

この様に聖書の筆者は、「無」という概念を「有」なる存在である人間の前に置くことによって、人は神に創造され、神の寵愛を受ける為に存在していることを説明しているのです。

 

その上で、人類は有限なる存在であるということを読者に、先ず認識させようとしています。

 

神は利己的な思いからではなく、人の為に「何もないところから」人に相応しく天地を創造しました。

 

2.「闇が大水の面の上にあり」

この言葉も先程のことばと同様に、この世界が理想的に形成される前の地上の様子を表現しています。

 

先ず、「闇」という言葉が出てきますが、これは単に「暗闇」という意味を超えて、人の立場から、神の介入される前の世界を観察して、人類にはどうしようもない「混沌」であったりとか「絶望」を表現しています。

 

また「大水」という誰も聞いたことの無い言葉が当てられていますが、この言葉を日本語で訳すのは至難です。


ニュアンスで捉えていただくしかないでしょう。

 

この「大水」という言葉の持っている他のニュアンスは「塩水」です。

 

これは、おそらく古代人の大敵であった「塩害」をイメージしているものと思われます。

 

塩害とは、田畑に塩水が侵入して作物などがすべてダメになる事を言いますが、ここでは、人に必要不可欠な作物も何も決して育つことのない「絶望」が表現されています。

 

ですから、「闇が大水の面の上にあり」と、先程の「地は茫漠として何もなく」という言葉も併せて、聖書の説明している神の介入する前の、原初の世界をイメージするならば、「荒涼とした虚無というにふさわしい大地を、絶望というにふさわしい塩水が覆い、更にその上を混沌が覆っていた。」といった具合でしょうか。

 

「虚無」の上に「絶望」、更にその上に「混沌」といった概念の三層構造で、とにかく原初の世界は、人類にとって、この上なく希望の無い世界そのものであったということが強調されているということです。


 
神が手を付ける前の世界は、人類にとっては決して手に負えるものではなく、絶望以外のなにものでもありませんでした。

 

聖書は、神の天地創造という希望を前に、先ず闇という名の絶望を示しています。

 

絶望を絶望として認識することをしなければ、希望を希望とすることは不可能です。

 

「絶望は絶望であると認識する」そのような書き手の意図を、このことばから見ることができます。                  


では、今を生きる我々にとっての絶望となんでしょうか。

 

次のことばの解説に移る前に、今を生きる我々にとっての闇について共に考えてみましょう。

 

我々にとって最大の闇とは何でしょうか。

 

原初の世界がそうであったように、人類にとって決して手に負えないものとは何でしょうか。

 

それは「死」であります。

 

これは誰も否定しないでしょう。

 

そのような圧倒的な闇に対して現代人はどのような態度を取っているでしょうか。

 

現代の闇への対し方は、闇を闇として認めない、或いは、闇を見て見ぬふりをすると言ったところでしょうか。

 

間違いなくそのような傾向はあると言えましょう。

 

しばしば、闇を光としてとらえる傾向すら見受けられます。

 

現代人の「死」という闇のテーマについて対峙する姿は、混乱以外の何物でもありません。

 

結局人類は、死という圧倒的な現実を前に心を騒がせ、目をそらすしか術を持たないのです。

 

「死」というのは、誰も逃れることのできない現実でありますが、現代人は必ずしも、そこに目を向けようとはしません。

 

考えても解らないものと割り切っているからのか、或いは、目の前の問題でいっぱいいっぱいだからなのか、いろいろな要因があると思います。

 

しかし、大きな要因として言えるのは、死に対して楽観的になっていることが主な要因なのではないかと思います。

 

現代人は、実は「死」を恐れていないのです。

 

死というテーマから目をそらし続けた結果、絶望をを絶望としてとらえることが出来なくなってしまっているからです。

 

何故、自分は死んでも大丈夫だろうと、ぼんやりと思い込んでいるのでしょうか。

 

何故、誰も死について大して関心を払わない状況を、自然と真っ当であると思っているのでしょうか。

 

この現代的な精神状態は、人類歴史から見たら極めて異常であると言えましょう。

 

現代人たちが常識と考えていることの背景には、「死は肉体が消滅すること」という、実は極めて思弁的で、空想的な考え方があります。

 

大多数がそう認めているからと言って、極めて真実に近いものの様に思い込んで、生物学的な死ということのみに限定して、死を楽観視する。

 

また、しばしば楽観を通り越して、天国的な世界を想像して家族と一緒に過ごせるのかなとか、或いは、地獄的な世界を想像して、この世で悪いことをした分、なんとなく懲らしめられるのかなだとか。

 

だけど、それでも地元の悪友なんかと、なんとなく地獄で笑い合えたらいいやとか、非論理的な謎の想像をしたりもします。

 

その様にして、我々は絶望を絶望として認識しておらず、闇を見て見ぬふりをして、目をそらし続け、死を絶望として直視せずに、死を実質無きものとみなしています。


だからこそ、現代人が死というものを真剣に考えるときのほとんどが、年を取った時や、病気になった時などの死期が具体的に近づいていると認識できるときなのでしょう。

 

その様に死が具体的に目の前に迫ってきたとき、はじめて絶望します。

 

いくら巧みな論法で凌ぎ、覆い隠し続けても、死という絶望は誰しもがいつか直面するものです。

 

年若いからと言って、或いは健康だからと言って考える必要はない、本当にそうでしょうか。

 

しかしながら、例え今、死を絶望と恐れて真剣に向き合おうとして、死に関心を払っているような世界観に足を突っ込もうとしても、結局は胡散臭いと思ってしまう人が多いようです。     

 

およそこの世の宗教、哲学等の思想的な営みは、死という闇を解決する為に生まれたものと言っても過言ではないと思います。

 

すべての思想の関心が、死からの「救い」に向けられているからです。

 

人類が編み出した思想は、如何にして死を克服できるか、いかにして死に付随する思い煩いを減らすことができるかに関心を置いています。

 

如何に着飾り、死から遠いテーマを語っているように見えても、結局は、死という恐れを如何に軽減して生きていけるかという人間的なテーマに収斂していくのです。

 

例えば、仏教では死から救われる為に死を再定義して、生命の循環の一部と教えています。

 

死というものを絶望とは見ずに、死というのは生命の大きな流れのプロセスに過ぎないとしていると言えるでしょう。

 

「輪廻転生」という教えは、正しくそのような発想から生まれた思想です。

 

この様な思想から生き方を模索すれば、次に生まれ変わる時に良い思いが出来るように、良い生き方をしようということになります。

 

日本人はこの思想に大きく影響されていますよね。

 

しかしほとんどの人は、死という現実を無視するような、非現実的な飛躍した思想には拒絶反応を示します。

 

その考え方を裏付ける実証が一切ともなわないからです。

 

結局のところ妄想に過ぎないと、ほとんどの人は判断します。

 

何故なら、いくら理屈をこねようとも、実際のところは死後どうなるかは分からないし、いかに立派に生きていようと、いつか絶望は無情にもやってくると、実証によってわかっているからです。

 

正しく聖書の説明する原初の世界がそうであったように、我々の心も死という絶望を前に、心を闇の様に暗くして、塩水の様な涙を流し、心を空しくしています。

 

そうするほか術がないのです。

 

聖書はここで、絶望を絶望として直視するべきだと警告しています。

 

その上で、この後に示す希望を受け取ってほしいと言っているわけです。

 

この後の神の天地創造の記述を理解するためには先ず、原初の世界という絶望を直視しなければならないと、筆者はここで強調しています。

 

3.「神の霊がその水の面を動いていた」

最後にこの言葉に注目します。

 

この言葉も非常に抽象的な表現が用いられていますので、ニュアンスで捉えていただくのが良いと思います。

 

先ず「神の霊」とありますが、「神の息」「神の風」とも訳すことができます。

 

とにかく神の「霊」という、目に見えない力を表わす言葉が、ここでは用いられ、絶望の世界への神の介入の予感を描いています。

 

そしてそのような目に見えない存在が、「その水の面を動いていた」とあります。

 

「その水」というのは先程説明した「大水」、即ち絶望を表現している「塩水」の事です。

 

「動いていた」とありますが、この言葉も日本語で見ると少し単調に見えますが、原語で見ると様々なニュアンスを含んでいます。

 

例えば「漂う」「宙に舞う」「羽ばたく」「揺れる」「震える」「覆う」等です。

 

何れもどこか優しく柔らかいイメージのある言葉です。

 

神の霊は、暴力的に息巻く原初の世界を、自由にふわふわと動いていたということになります。

 

聖書の書き手は、先ほどまでの暗く重苦しい雰囲気のことばに、この優しく軽い対照的なイメージを持つ言葉を配置することによってギャップをつくり、絶望の世界に対峙した神の姿を表現しています。

 

さて、最初のことばから今までを受けて、原初の世界の全体像はまとめるのであれば、「荒涼とした虚無というにふさわしい大地を、絶望というにふさわしい塩水が覆い、更にその上を混沌が覆っていた。しかし、更にその上を神の霊が優しく覆っていた」ということになります。

 

「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」とは、まさにそのような様相を呈した原初の世界の状況を説明することばだったということが分かりました。

 

繰り返しになりますが、聖書の関心は、原初の世界がどうであったかという所にはなく、あくまでも人間に必要なテーマへと向かいます。

 

ここで、人の必要を満たせるものとされているのは、神が人の為に如何にして絶望の世界に対峙していたのかという点にあります。

 

そこに、私たちに向けられているこの文章全体が伝える中心的なメッセージがあるのです。

 

また強調しておきたいことは、聖書に書かれていることは、ここで取り扱っている言葉だけでなくて、すべて神への信頼を促すという目的を持っているということです。

 

あるときは、神を信じないものの生き方、考え方が如何に虚しく欺瞞にあふれているものなのかをむき出しにして、神の正当性を主張することによって、読み手を神への信頼に導きます。

 

ですから聖書のことばは、時にこの世の中に生きる我々にとって刃物の様に突き刺さることがあります。

 

あるときは神の全能の力を通して、又あるときは、神の愛を通して、様々なアプローチをして、神は信頼に足る存在であるということを証言しています。

 

人が一人で生きていけるような思想的なサバイバル技術を紹介するのが哲学書であったり、他の宗教の教本なのに対して、聖書は、人は神に依存して、神という存在を信頼することによってのみ生きていけると教えていて、一貫して神への信頼を説いているのです。

 

この箇所について言えば、神の性質、即ち、神はどのような存在なのかということを表現することによって、読者に神への信頼を促しています。

 

つまり、神とはいったいどういう存在なのかということを知ってもらうことによって、読み手の必要を満たそうとしているということです。

 

では、ここで教えられている神の性質とは何なのかと言えば、少し難しい専門用語で「遍在性」と言います。

 

偏在性というのは「いつ、どこにでも存在する性質」を指す言葉です。

 

神は永遠の昔から、今現在、そして永遠の未来に至るまで、同時にしかも、どんな場所にも存在するということです。

 

無であろうとも、有であろうとも、闇であろうとも、光であろうとも、絶望であろうとも、希望であろうとも、天であろうとも、地であろうとも、或いは、江戸時代であろうとも、現代であろうとも、北朝鮮であろうとも、日本であろうとも、時間や空間等の実存的なものや、概念的な束縛を受けずに、神はいつ、どこであろうとも「ある」ということです。

 

この箇所について言えば、「絶望」や「闇」「無」「混沌」という概念を超えたところで、「神」を登場させることによって、神の遍在性を、即ち、神はいつどこにでも存在するということを表現しているということになります。

 

これは聖書全体に一貫している神の性質なので、少し難解ですが、覚えていただきたい真理です。

 

神は天国という別の次元から、地上を見下ろしているというのは、極めて現代的な思想に絡めとられた神に対する認識であって、聖書はそう教えていません。

 

神が今か今かと絶望に介入しようと、その時を、天国的な別次元からではなくて、世界の傍らで、絶望のすぐそばで、感情を揺さぶりながら待っているというのです。

 

これは、原初の世界の状況を説明したものでありますが、現代に生きる我々にも訴えかけるものがあります。

 

原初の世界のような、混迷の時代を生きている我々は、時に神も仏もあるものかと、こぼすことがありましょう。

 

世界に目を向ければ頭を抱えたくなるような隣国ばかりだし、国内に目を向ければ課題が山積しています。

 

又、自分の周りの環境に目を向けても家庭の事であったり、職場でのことであったり、このご時世、希望を見出せない人が多いのではないかと思います。

 

そして、人生を散々悩んだ挙句、すべての人に絶対待っているのは「死」という絶望、圧倒的現実です。

 

しかし、そのような希望を見出せない時でこそ、ここで取り扱っている、この言葉が生きてくるのです。

 

絶望だと思っている時にこそ、人は希望を見出そうとします。

 

問題のある隣国があるならば、強国を味方につけようと画策します。

 

国内の政治に問題があるならば、カリスマ的政治手腕を持つ政治家を探します。

 

又、自分の身の回りに問題があるのなら、家族や友人など信頼できる人に問題を打ち明けます。

 

そのようにして、人は絶望に耐えることができないので、常に希望を見出そうとする習性があります。

 

しかし聖書は、その様にして希望を求めている人に、ここで「神を希望とする」ことを提案しています。

 

この世の中の示す希望というのは、常に一時的なものです。

 

強国はいつかは廃れます、政治家も、いつかは力を失い失脚します、信頼できる人もいつか死にます。

 

人がどんな理屈をこねようとも、死という絶望は絶対に超えられません。

 

死という人間にとって最終的な所に目を向けるのであれば、この世の中の示すどんな希望も、結局はその場を凌いでいるにすぎないということになります。

 

それに対して聖書は、その場しのぎの様な希望ではなく、神に希望をかけることによって、生きていくことを強く勧めているということです。

 

聖書は、神はいつどこにでも存在しているとしています。

 

隣国に失望している時も、政治家に失望している時も、信頼できる人に失望している時も、或いは、死という絶望に際しても、神はすべての問題を解決する力をもって、そこに存在していると聖書は教えているのです。

 

神は死という概念を超えて存在しているので、死ですら問題ではありません。

 

一時的な希望ではなく恒久的な希望、即ち、神を希望とすることによって、世の中のあらゆる出来事に左右されない、一喜一憂しないぶれない人生を送ることを勧めています。

        
原初の世界だけでなく、今も同じく生きている神は、この世界の闇を、或いは、あなたの心の闇を見て見ぬふりは決していません。

 

むしろここで書かれているとおり、今か今かとその介入の時を、気持ちを大きく揺さぶりながら待っておられるのです。

 

今、解決不能な問題の中で苦しみもがいている人がいるならば、この言葉をもって、今まさに神があなたの問題に介入をしようとしておられることを知り、また認め、聖書の教えるこのことばに目を留めてみてはいかがでしょうか。

 

もし、目を留めるのであれば、問題は依然として佇んではいるものの、絶望の世界を神の霊が覆っていたように、あなたの心の闇を覆い、神があなたと共に苦しんでくださいます。

 

そして、もしあなたが神にその問題を委ねるならば、どんな問題でも最終的には解決されます。


神には不可能が無いからです。

 

神は、その希望にあなたが与ることを今か今かと待っておられ、あなたの人生への介入の時を伺っておられます。

 

絶望の先にいる神に信頼するのであれば、だれでも、どこにいようとも、どの様な境遇にあろうとも、決して取り去られることがない、永遠に続く希望に与ることが出来ます。

 

是非、このことばをもって神に信頼してみてください。

 

4.「まとめ」  

「地は茫漠として何もなく」という言葉は、神が創造する前の世界は「無」であったと説明している

「闇が大水の面の上にあり」という言葉は、神が創造する前の世界は「絶望」であったと説明している

「神の霊がその水の上を動いていた」という言葉は、神が人類の為に絶望に介入しようとしている姿を表現している。

 

「ご紹介」

1.サムネイルの絵

鳥獣戯画『呪いの墓場』

サムネイルの絵のタイトルは、鳥獣戯画「呪いの墓場」です。

 

これは、「ぎなた読み」という、語句の区切りを間違えて読んでしまい、結果2つの意味を持つ文章になることを、絵に応用して意味を表現した鳥獣戯画です。

 

墓場に行く、即ち「死ぬ」ことを軽視し、ましてや笑いに変えて、絶望を少しでも薄めようとする、現代人の可笑しげな傾向が表現されています。

 

2.聖書をお求めの方へ

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