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聖書の名言 「初めにことばがあった。」(ヨハネの福音書1章1節)

こんにちは、来栖川クリスです。

今回は聖書の名言である「初めにことばがあった」の内容をキリスト教伝道者が分かりやすく解説していきます。


本記事は、聖書のことばにすこしだけ触れてみたいと思っておられる方必見です。


聖書の言う「神」とは一体何なのかを、簡単に知ることができる内容となっておりますので、是非ご利用ください。

 

 

「目次」

  1. 「初めに」
  2. 「ことばがあった」

 

「ご紹介」

  1.  サムネイルの絵
  2.  聖書をお求めの方へ

 

 

「初めにことばがあった」

これはキリスト教信仰の土台を成す重要な言葉であり、「キリストは一体何者なのか」という点に光を当てる教えです。

 

聖書は、この世界は神が造られたという世界観を提示していますが、今回取り扱う言葉は、被造世界が始まる前のことを表現しています。

 

ですから、聖書の言葉を時系列順に並べるならば、今回紹介する「初めにことばがあった」という文が一番先になります。

 

旧約聖書、創世記には神の天地創造が描かれていますが、天地が具体的にどの様な力によって創造されたのかまでは示されませんでした。旧約聖書が書かれた時代にはまだ明かされていなかったからです。

 

しかし、キリストの到来、即ち「福音」によって新たな情報が示されました。

 

ではいったいどのような情報なのか、一言一句に注目してましょう。

 

1.「初めに」

「初めにことばがあった」

先ず「初めに」という言葉に目を留めたいと思います。

 

「初めに」と言ったとき、自動的にそれ以前には何もないことを意味します。正にその通りで、 聖書は何を置いても、先ず「ことば」があったと主張しているのです。

 

「ことば」と見てわかる通り、「言葉」と訳されず、あえてひらがなで訳されているのは、多種多様な、 一言で訳出不可能な哲学的意味が多く含まれているという事情があります。

 

新約聖書ギリシャ語で書かれていますが、原語では複雑な意味を持っているということですね。

 

「ことば」の説明は次のポイントで解説するとして、とにかく先ず覚えていただきたいのは、「ことば」と言うのは「神」を説明する為の単語であるということです。

 

ここでは、何故 「神」が「初めに」おられたと言われているのかに注目してみましょう。

 

この世界の「初めに」何があったのか、人は様々な想像をします。

 

虚無であったとニヒルな空想をしてみたり、宇宙の前身となる高密度のエネルギーが存在していたと仮説を立ててみたり、或いは宗教や神話が教えるように、神的な存在があった考えてみたりします。

 

聖書も、何よりも先に神がおられたという点においては、他の宗教や神話と同じですが、明確に違うのは「神以外の概念の一切の存在を許していない」という点です。

 

神は神であるがゆえに、何にも依存しないという聖書の神に対する見解が、「初めに」という言葉には表わされているのです。

 

要は、神は他と比べることができない「絶対的な存在である」と表現しているのです。

 

因みに、ちょっと勘違いしたような社長が自己啓発本で書いているような、「先ず口約束があった」という意味は全くありません。

 

「初めに」という言葉に込められた意味は、現代人の生き方に挑戦します。「初めに虚無があった」とするならば、人生も無意味で虚無に満ちたものになるでしょう。

 

「初めに宇宙の前身となる高密度のエネルギーが存在していた」と 科学的に考えるのならば、意味のある人生を生きられないどころか、決して答えの出ない問いに悩まされ続けるでしょう。

 

宇宙の始まりを、今ある事象から原因を無限に遡り、因果律的な考えかたで検証していく「科学」という人間の浅知恵では、論理的に考えて世界の始まりを説明することは不可能です。

 

何か宗教的な考え方に染まっていないものを、特に日本人は自動的に現実的であると考えるようですが、全く本質が見えていないのではないかと私は考えます。

 

人は始まりを「どう考えるのか」という域を 決して超えることはできず、「どう信じるべきか」という限界の中で生きるしかないからです。

 

「初めに」という聖書の言葉を真正面から受け止めると、そのような人間の限界が浮き彫りになります。

 

時に聖書は人に絶望を示すのです。しかし、同時に「ことばがあった」という希望に導いています。

 

つまり、人間の知の限界を見た時に、絶対的存在である「神」を見出すことができるのだと、先ず導いているということです。

 

2.「ことばがあった」

「初めにことばがあった」

次に「ことばがあった」という言葉に目を留めたいと思います。

 

「ことば」とでてきますが、これには様々な意味が含まれています。

 

「ことば」と訳されている語は、原語のギリシャ語ではλόγος(ロゴス)」と言いますが 、複雑な意味が込められているので、日本語では厳密な訳出は不可能な単語です。

 

聖書の筆者は、神という存在を説明しようと、あえて複雑な意味がある言葉を選んでいます。

    
神は人間の理知的限界を超えた存在であることは、前の「初めに」という言葉で示されましたが、そのうえで「ことばがあった」と、更に神についての新たな情報を落としています。

 

神というつかみどころがない絶対的存在に、不完全な人間が向き合えるように、手がかりとなるヒントを与えるためです。

 

ところで、よく宗教信者が言われるのは「神がいるのであれば見せてみろ」です。

 

この類の質問のする人の背後には「自分が認識できる範囲でのみ、この世のすべてが存在している」という思い込みが隠されています。

 

人間の限界が、この世界の正解だと信じる現代人の一般的な信仰心と言えましょう。

 

しかし聖書は、ハッキリとその考え方は間違っていると断罪します。

 

λόγος(ロゴス)」という言葉には様々な意味があると述べましたが、ここでの一番の強調点は、「神は目に見えない存在である」ということでしょう。

 

λόγος(ロゴス)」は大前提として「目に見えない概念」を指し示すものです。

 

「目に見えない概念」を指す言葉が「神」という絶対的存在を説明する為に用いられているということですね。

 

神は絶対者であるがゆえに何にも依存する必要が無いので、我々の様に、情報を得る為に見ることはおろか、聞く、嗅ぐ、味わう必要もありません。

 

従って体を持たないので、人間の様に、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりすることをしないのです。

 

つまり「神がいるのであれば見せてみろ」という問いに、聖書は「λόγος(ロゴス)」という言葉をもって、「神は目で見ることができない性質をもっている」と答えているのです。

 

しかし同時に、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりできる形で自身を表すことができる存在でもあります。

 

必要とあれば、神は自身を人に啓示することもできるのです。

 

そして実際、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりできる人の形で表されたのが「イエスキリスト」です。

 

神は、人類を罪と死から救うために、神のかたちとして、キリストを人間の目で見える形でこの世に表しました。

 

それは自らが創造した人間を救うため、実際に人として死に、人類の罪による呪いを引き受ける必要があったからです。

 

人でなければ死ねません、しかし神でなければ救えません。

 

「初めにことばがあった」

聖書の時系列で一番最初に位置づけられているこの名言は、先ず神の性質を説明し、イエスの救い主としての資格を示しているのです。

 

(まとめ)


「初めに」という言葉は、神は「絶対者である」ということを表している。


「ことば」という言葉は、神は「神は目に見えない存在である」ということを表している。


「初めにことばがあった」という言葉は、人を救いに導くために必要な、キリスト(救い主)に対する前提知識を我々に教えている。

 

「ご紹介」

1.サムネイルの絵

摂理的躓顚三脚巴

サムネイルの絵のタイトルは、摂理的躓顚三脚巴(せつりてきちてん さんきゃくどもえ)です。

 

本来は記事で取り扱うテーマに沿ったサムネイルを描くのですが、今回取り扱った「初めにことばがあった」という言葉を視覚的に表現するのは不可能だなと思いました。

 

よって本記事に限っては、「ことばとなった」存在の計画が、どの様に進んでいくのかという副次的なテーマを描くことにしました。

 

聖書曰く、神は、堕落し罪に躓いてしまった全人類の救済計画を進める為に、選民イスラエルを見出し、彼らの子孫の中から救い主であるイエスキリストを遣わしたと言います。

 

救い主の到来は、預言者によって予め知らされ、旧約聖書によって詳細に示されていましたが、なんとイスラエルの民はキリストを拒否しました。

 

神に選ばれた民が、神の救いを拒否するとは何とも皮肉ですね。

 

しかし、彼らの躓きによって、神は救いから遠かった異邦人、即ち非イスラエル民族に救いが及びました。

 

その結果誕生したのが、救われた信徒の群れである、所謂「教会」であります。

 

つまり、選びの民が救いを拒否することなど、最初から織り込み済みの計画だったということです。

 

では、イスラエル民族が神に見捨てられたのかといえば、そうではありません。

 

神は、今度は教会を通して、彼らに救いを及ぼすために取り計らっているのです。

 

そして、イスラエルの救いをもって、人類救済計画を成就させ、歴史を完結させようとしておられます。

 

人類の躓きは、選びの民に委ねられ、選びの民の躓きは 選ばれなかった者たちの救いに委ねられました。

 

選ばれなかった者たちの救いの結果、選びの民の救いが完成し、それを通して人類の歴史が完成するということです。

 

結局のところ、選ばれているか選ばれていないかなど人間側の視点なのであって、全ては神の前に平等であり、全ては神の計画の内であると聖書は教えます。

 

その様な、人の躓きによって進展し、神の愛の内に転がっていく不思議な摂理が、この絵には表現れています。

 

2.聖書をお求めの方へ

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